アンナ・ド・コンスタンティノープルとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アンナ・ド・コンスタンティノープルの意味・解説 

アンナ・ド・コンスタンティノープル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 09:12 UTC 版)

アンナ・ド・コンスタンティノープル
Anna de Constantinople
ローマ皇后
イタリア王妃
在位 ローマ皇后:901年2月22日 - 905年7月21日
イタリア王妃:900年 - 905年

出生 885年
東ローマ帝国コンスタンティノープル
死去 912年
埋葬 東ローマ帝国コンスタンティノープル
配偶者 ルイ3世
子女 シャルル・コンスタンティン?
アンナ?
家名 マケドニア家
父親 東ローマ皇帝レオーン6世
母親 ゾエ・ザウツァイナ
宗教 キリスト教
テンプレートを表示

アンナ・ド・コンスタンティノープルフランス語:Anne de Constantinople, イタリア語:Anna di Costantinopoli, 885年 - 912年)は、東ローマ帝国皇女、ローマ皇后およびイタリア王妃。

生涯

アンナは東ローマ皇帝レオーン6世とゾエ・ザウツァイナとの間の娘である。

セティパニ(Christian Settipani)によると、コンスタンティノープル大司教ニコラオス1世の手紙において、レオーン6世とゾエとの間の次女と、プロヴァンス王・ローマ皇帝ルイ3世との結婚のための交渉について言及しているという。この交渉が成功したか否か、および結婚が実際に行われたかどうかは不明である。アンナはルイ3世と結婚しなかったとする歴史家もいる。

一方、セティパニおよび一部の系図学者は、結婚式は900年代に行われ、この結婚により、西ローマ帝国と東ローマ帝国の帝室が結ばれたとする。そしてこの結婚により、シャルル・コンスタンティンが生まれ、その名前こそが西と東の融合を示すとしている。また、ベレンガーリオ1世の2番目の妃アンナは、ルイ3世とアンナとの間の娘といわれている。

アンナはコンスタンティノープルに葬られたが、それはアンナが結婚せずコンスタンティノープルで生涯を送ったという根拠ともされている。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  アンナ・ド・コンスタンティノープルのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

アンナ・ド・コンスタンティノープルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アンナ・ド・コンスタンティノープルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアンナ・ド・コンスタンティノープル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS