アンナ・カタジナ・コンスタンツィア・ヴァザとは? わかりやすく解説

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アンナ・カタジナ・コンスタンツィア・ヴァザ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/12 09:13 UTC 版)

アンナ・カタジナ・コンスタンツィア・ヴァザ
Anna Katarzyna Konstancja Waza

出生 (1619-08-07) 1619年8月7日
ポーランド・リトアニア共和国ワルシャワ
死去 (1651-10-08) 1651年10月8日(32歳没)
神聖ローマ帝国ケルン
埋葬 神聖ローマ帝国デュッセルドルフ
配偶者 プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルム
家名 ヴァーサ家
父親 ポーランドジグムント3世
母親 コンスタンツェ・フォン・エスターライヒ
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アンナ・カタジナ・コンスタンツィア・ヴァザAnna Katarzyna Konstancja Waza, 1619年8月7日 - 1651年10月8日)は、プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムの最初の妃。ポーランドリトアニア大公ジグムント3世とその2番目の妻で神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹であるコンスタンツェの末娘。

生涯

ポーランド議会は1633年、アンナの花嫁持参金としてブロドニツァ (en、ゴウビェ (en、トゥホラ (enの3郡を用意した。1637年、アンナと母方の従弟にあたるオーストリア=チロル大公フェルディナント・カールの縁談が持ち上がり、1639年1641年の間2人は婚約していた。しかしフェルディナント・カールの側がアンナの持参金の少なさに難色を示し、結局この結婚は実現しなかった。

1642年6月8日、アンナはプファルツ=ノイブルクの世継ぎ公子フィリップ・ヴィルヘルム(後にプファルツ選帝侯)と結婚した。アンナは1645年に男児を出産したが、息子は誕生してすぐに死んだ。アンナはこれ以後子供を授からず、1651年に亡くなってデュッセルドルフイエズス会の教会に埋葬された。




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