アントン・グラフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アントン・グラフの意味・解説 

アントン・グラフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/05 23:57 UTC 版)

アントン・グラフ
Anton Graff
自画像(1805年か1806年)
生誕 1736年11月18日
スイス同盟
チューリッヒ共和国ヴィンタートゥール
死没 1813年6月22日
ライン同盟
ザクセン王国ドレスデン
テンプレートを表示

アントン・グラフ(Anton Graff、1736年11月18日1813年6月22日)はスイス生まれで、ドイツで活躍した肖像画家である。

略歴

スイス・チューリッヒ州ヴィンタートゥールに生まれた。14世紀から続く食器職人の家の生まれであったが絵が好きで、父親の仕事を継がずに、1753年からヴィンタートゥールの画塾で学び始め、3年後にアウクスブルクに移り版画家、ハルト(Johann Jakob Haid)の弟子になり、1年後には、ハルトの推薦を受けてアンスバッハの宮廷画家、ヨハン・レオンハルト・シュナイダー(Johann Leonhard Schneider: 1716-1768)の弟子になった。修行のためにしばしばミュンヘンに旅し、ミュンヘンの様々な美術コレクションの作品を学んだ。1759年にアウクスブルクに戻り、その後レーゲンスブルクで働いた後、1765年にヴィンタートゥールやチューリッヒで過ごした。元外交官で美術史家のハーゲドルン(Christian Ludwig von Hagedorn: 1712-1780)に見いだされ、1764年に新たに設立されたドレスデンの美術アカデミー(後のドレスデン美術大学)で教師として働くことを勧められ、1866年にドレスデンに移り、肖像画の教師として、没するまで働いた。精力的に肖像画を描き毎年、展示会を開いた。ライプツィヒの書店主と知り合い、その注文で多くの文学者、文化人の肖像画を描くためにしばしばベルリンを訪れた。

1,000点以上の肖像画を描き18世紀後半から19世紀初めの代表的なドイツの肖像画家となった。

1771年10月に結婚し、5人の子供が生まれたが3人の子供は幼い時に亡くなった。娘のカロリーネ・スザンネ(Caroline Susanne: 1781年生まれ)は画家のカール・ルートヴィヒ・カーツ(1773-1810)と結婚した。息子のカール・アントン・グラフ(Carl Anton Graff: 1774-1832)は風景画家になった。

作品

参考文献

  • Richard Muther, The History of Painting from the Fourth to the Early Nineteenth Century, New York ; London, Putnam, 1876, p. 747.
  • Joseph Raymond Fournier-Sarlovèze, Les peintres de Stanislas-Auguste II, Paris, Librairie de l'art ancien et moderne, 1907, p. 21-35.
  • Ekhart Berckenhagen, Anton Graff - Leben und Werk, Berlin, Deutscher Verlag für Kunstwissenschaft, 1967.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  アントン・グラフのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントン・グラフ」の関連用語

アントン・グラフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントン・グラフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントン・グラフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS