アントワーヌ・コワペルとは? わかりやすく解説

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アントワーヌ・コワペル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 09:35 UTC 版)

アントワーヌ・コワペル
Antoine Coypel
Alexis Grimouによる肖像画
生誕 1661年4月11日
フランス王国パリ
死没 (1722-01-07) 1722年1月7日(60歳没)
フランス王国パリ

アントワーヌ・コワペル(Antoine Coypel、1661年4月11日 - 1722年1月7日)は、フランス画家である。王室の筆頭画家"premier peintre du roi"に任じられた。

略歴

パリで生まれた。父親のノエル・コワペルは画家で、異母弟にノエル=ニコラ・コワペル(Noël-Nicolas Coypel:1690-1734)がいる。ノエル・コワペルはフランスの王室で有力な画家となっていて、1673年にローマの在ローマ・フランス・アカデミーの校長に任じられ、12歳のアントワーヌは父親と1673年から1675年の間、ローマに滞在し、父親から美術教育を受けた[1]。ローマでは、ルネッサンスの巨匠作品や古代彫像から学んだ。イタリアのバロックの画家たちに影響を受け、コレッジョの作品に影響を受けた。

パリに戻った後、コレージュ・ダルクール(Collège d'Harcourt)で古典文学の教育を受けた[2]。若くして才能は認められ、20歳の時に王立絵画彫刻アカデミーの会員に選ばれた。

その後も画家として成功し、多くの宮殿の装飾画も描いた。1710年に王室絵画コレクションの館長になり、1716年に王室の筆頭画家"premier peintre du roi"となった。

パリで没した。

1688年にMarie-Jeanne Bideauと結婚し、息子のシャルル=アントワーヌ・コワペル(Charles-Antoine Coypel:1694-1752)は歴史画家として知られる[3]

作品

ペルシア大使を謁見するルイ14世(1715)
「神々の集い」 (1705)
東方三博士の礼拝

脚注

  1. ^ Denise de Rochas d’Aiglun, L’Autoportrait du XVII à nos jours : Musée des beaux-arts, Pau, avril-mai 1973, Musée des beaux-arts, 1973, in-8°, p.72-73.
  2. ^ Jérôme Delaplanche, Noël-Nicolas Coypel (1690-1734), Paris, Arthena, 2004, p.167.
  3. ^ in Vie de Premiers Peintres du Roi, Paris 1752

参考文献

  • Dorothea Schille Die Kunsttheorie Antoine Coypels: eine Ästhetik am Übergang vom Grand Siècle zum Dixhuitième, Europäische Hochschulschriften (Dissertation Bochum 1995)



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