アレクシオス1世 (トレビゾンド皇帝)とは? わかりやすく解説

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アレクシオス1世 (トレビゾンド皇帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 15:11 UTC 版)

アレクシオス1世コムネノス
Αλέξιος Α' Κομνηνός
Alexios I Komnēnos
トレビゾンド皇帝
在位 1204年4月 - 1222年2月1日

出生 1182年
死去 1222年2月1日
配偶者 テオドラ・アクスーキナ
子女 ヨハネス1世
マヌエル1世
名前不明(アンドロニコス1世の妻)
王朝 コムネノス王朝
父親 マヌエル・コムネノス英語版
母親 ルスダン
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アレクシオス1世コムネノス古代ギリシャ語: Αλέξιος Α' Κομνηνός, ラテン文字転写: Alexios I Komnēnos, 1182年 - 1222年)は、トレビゾンド帝国の初代皇帝(在位:1204年 - 1222年)。東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝であったアンドロニコス1世コムネノスの長子マヌエル・コムネノス英語版と、グルジア王女ルスダン(グルジア女王タマルの妹)の長男。

生涯

1204年4月、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル第4回十字軍によって落とされる直前、アレクシオス1世はトレビゾンドを占領し、コムネノス王朝の後継王朝としてのトレビゾンド帝国を建国し、その初代皇帝として即位した。

即位後、アレクシオス1世は伯母にあたるグルジアの女王タマルの支援を得て西進を続け、パフラゴニア英語版地方にまで領土を拡大した。その後も黒海南岸にまで領土を拡大するなど、順調に勢力を拡大していたが、これを危険視したニカイア帝国テオドロス1世ラスカリスルーム・セルジューク朝の攻撃を受けるようになる。アレクシオス1世はルーム・セルジューク朝に対抗するためにスィノプに進出したが、1214年にルーム・セルジューク朝の逆襲を受けて大敗を喫し、自身も捕虜になってしまった。

ルーム・セルジューク朝に臣従するという条件で一命は助けられた後に釈放され、皇帝として復位したのだが、トレビゾンド帝国の威信はすでに地に堕ちてしまったのである。またこの敗北により帝国はスィノプを失い、首都トレビゾンドの西250キロにあるイリス川まで押し返された。

1222年2月1日に死去し、娘婿のアンドロニコス1世がアレクシオス1世の子ヨハネス1世マヌエル1世を押しのけて皇帝の位についた。

先代
-
トレビゾンド帝国皇帝
1204年 - 1222年
次代
アンドロニコス1世



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