2月革命 (1917年)
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ロシア2月革命 | |
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種類 | 市民革命 |
目的 | 戦争終結 |
対象 | ロシア帝国 |
結果 | 臨時政府と対立するソビエトとの二重権力体制発生 |
発生現場 | ロシア ペトログラード |
期間 | 1917年2月23日 - 2月27日(グレゴリオ暦:3月8日 - 12日) |
デモ発生3日目から全市に拡大したデモ隊と鎮圧側との武力衝突が本格化したが、5日目であるユリウス暦2月27日朝には近衛のボルイニ連隊による民衆への発砲出動拒否を皮切りに、急速に他の部隊に波及した。反乱に賛同した兵士たちはデモ参加者らと共に政治犯を解放した。デモ発生6日目には政府軍が消滅し、7日目になるまでに政府閣僚が逮捕された[2]。ユリウス歴2月27日に国会臨時委員会が設立、ユリウス歴3月2日に国会臨時委員会主導で臨時政府ではあったが、カデットなどから構成される政権が出来たことでロシア初の民主派政権が誕生した。同日、ツァーリのニコライ2世は退位し、弟のミハイル大公に譲位したが、ミハイル大公は即位を拒否した。ツァーリが存在しなくなったことで、300年間続いたロマノフ王朝は崩壊した[2]。
事実上自由主義者のみで構成されていた臨時政府は、内政では画期的な民主政策を行ったが[4][2]、外交において戦争継続路線を取ったことは社会主義革命である十月革命につながり、結果的に2月革命による帝政の崩壊はソビエト連邦の誕生につながった。
この当時のロシアでは、現在一般的に用いられているグレゴリオ暦とは異なるユリウス暦が採用されており、暦上13日の遅れが存在する。この時の革命はグレゴリオ暦によると3月革命となるが、以下では2月革命に統一する。日付についても旧暦を用いている。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “臨時政府(ロシア二月革命)とは”. コトバンク. 2022年2月1日閲覧。
- ^ a b c d e 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),旺文社世界史事典 三訂版,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “ロシア革命とは”. コトバンク. 2022年2月1日閲覧。
- ^ a b c d “ロシア革命と第一次大戦関係の英外務省文書集 1914-1918年”. www.gale.com. 2024年2月5日閲覧。
- ^ a b c “<視点>変貌したロシア ソ連崩壊30年 権威主義は必然か 外報部・常盤伸:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2022年2月1日閲覧。
- ^ 『不滅の敗者ミリュコフ ロシア革命神話を砕く』p68-69,鈴木肇,恵雅堂出版,2006年
- ^ 『全ロシア憲法制定会議論』p. 256-258,新美治一,法律文化社,2011年。
- 1 2月革命 (1917年)とは
- 2 2月革命 (1917年)の概要
- 3 概要
- 4 背景
- 5 脚注
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