科学的方法 歴史と哲学

科学的方法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 08:13 UTC 版)

歴史と哲学

「科学的な方法とは何か」という問題について、これまでは科学者の側あるいはそれに近い側からの議論を中心に述べてきたが、この問題は科学哲学の重要な問題の一つでもある[80]。但し、反証可能性、オッカムの剃刀などに関する諸議論は、科学者にとっての必須教養ではない。研究開発の現場と乖離している場合もある。哲学として一定の権威を有していても、極端にそれら考えを掘り下げると全くの出鱈目に近い議論が成立することもあるので注意を要する。

科学的な方法を身に付ける上では、特に初学のうちは下手に手を出さないほうがよい事柄も多く含まれ、研究者として未熟な段階でこの手の議論にとりつかれてしまったがために、この手の話題だけには強くなり、インターネット上で教弁をふるってはいるが、研究業績はさっぱりという「研究者」もいる。

特に、哲学と自然科学が分業して以降は科学哲学の側がどうしても観念的になり、また、科学を中途半端に理解した議論が野放図に行われる状況である[51]。具体的には、「相対論の実証により、古典力学の正しさは否定された」とか、「土星模型は、電子運の発見で意味をなくした(土星模型で説明のつく問題は土星模型を用いればよく、量子論でも、ハミルトニアンは、クーロンポテンシャルを用いて立てることが多い。)」などといった短絡的で次元が低い理解に基づき、論理の飛躍を繰り返す傾向などがある。また、宗教、オカルトといった、まったく思考様式の異なる問題と科学との線引きといった、科学者にとっては直接的には意味のない問題を延々と扱う傾向がある。

また、古典的な科学哲学者の見解には科学の進展の美化された部分を高度に抽象化させすぎるきらいがあることが指摘されている。結果として道徳の次元としては美談だが、現実の科学の進展に寄与したい人間にとっては逆に変な誤解や萎縮効果を与えてしまう危険性のある理屈がまかり通り、神話を作るだけで結果として科学者の側にとってはどうでもよい問題を延々と議論しているという指摘がしばしなされる[51][81]

不幸なことにこのような古典的な科学哲学の問題点は「いまでもそのまま」だと誤解されているようであるが、これはとんでもない間違いである。現在の科学史、科学哲学においては既に実験ノートの記録などから科学的に研究者に迫るアプローチが主流であり、従来の観念的な科学論は科学哲学の中でも重要性を失っている[81][82][83][84]

観念的な大昔の科学史、科学哲学によって形成された神話的な科学者像は正確には実用性に欠く見当違いな「科学的方法」観を与える。先述のように、科学的な方法においては、最終的にはデータに文脈性を持たせることが重要になるが、データに文脈性を持たせる能力について「単なる弁明の能力でしかなく、科学を進める原動力にはならない」と言う人もいる[82]。そして、「口がうまい者が一流とみなされる」と嘆いて見せる[82]。しかし最近の科学史の研究においては、「パスツール」だとか「ファラデー」とかいった比較的神格化されている人たちも含め、どちらかというと「口がうまい」と嘆かれる研究者に近くそういう特質をもっていたからこそ科学を進歩させられたのだとみる見方が主流となっている

反証可能性に関して

疑似科学に対する批判活動(科学と非科学の線引き問題)において、「科学的」であることの要件の一つとして、「ポパーの反証可能性の原則」がよく引き合いに出される。[要出典]

SFAAでは、本質的に立証も反証も行えないような対象は、原則論としては科学の対象とはみなされない[2]とされている。

しかし、総じて言えば、反証可能性は現実には、「ポパーの反証可能性の原則」は、言われているほど現実の研究者には、受け入れられておらず、むしろ軽視されている[49]とも言う。

ラリー・ラウダンらは「(反証可能性は)普通は科学的とみなされないような理論でも、満たすこともあり、これまで成功してきた多くの科学の実例は、反証可能性を逸脱している」と 指摘した[要出典] 。ここで、 「反証可能性を逸脱する」とは、「基本法則の成否判定が、少なくとも現実には不可能で、 補助仮説を補ったり実験手続きの不備などを仮定するなどの“逃げ”(小規模な修正)によって理論が変わっていくこと」を指す[3]


また、「三体問題は、運動方程式が支配法則である」という問題は、古典力学の問題で、二体問題が大学入試レベルであることと対照的に、(解が存在するものの)解析解が原理的に発見しえないことが数学的に分かっているうえ、解の不安定性が存在する可能性もあり、軌道を予測したければなんらかの近似をせざるを得ないことになる。従って、なんらかの“反証”らしき実験結果が出たとしても、不安定平衡点の存在によるのか、「近似の粗さの問題」なのか、「そもそも三体以上の問題には運動方程式が適用できない」のか「基礎方程式の間違い」なのか、「近似のまずさ」なのか、「実験の問題」なのかは、極めて難しい問題となる[要出典]


さらに、現実の科学は、現実の科学研究の進展においては、仮説はあいまいなところからはじまり徐々に明確になっていく傾向があり、論文を書く場合には簡単には反証されないように細心の注意を払う傾向があると指摘される[59]

通常の科学者は、ある理論に対していくつかの反証となる例が発見された場合にも、理論自体を全否定するという考え方はしない。通常は、アドホックな仮説を積極的に投入することにより、予測の精度を高めてより広範に受け容れられるように何らかの変更を加えること[2][3]が一般的である。場合によっては、欠点を認識しながら、そのまま未修正の学説を使い続けることもある。

具体的な科学の事例においては、相対性理論の有用性は、古典力学の反証によって立証されたが、相対性理論の構築は、ニュートン力学を破棄、否定する形をとらず、むしろニュートン力学がより一般的な概念の中で適用範囲が限定された一つの近似であるにすぎないことを示す形で行われた[2]とSFAAでは説明された。さらにニュートン力学に基づいた計算は、現在でも無修正で科学技術の最先端で使われることが多々ある。この意味でも「ニュートン力学が相対論によって否定された」とまで言い切るのは早計であり、現在の科学者の標準的な考え方とは大きく異なる[2][3][15]

さらに疑似科学と科学の線引きに関しても、実際に論点となるのは、個々のデータの有意性や論理的整合性等である[85]

現在の研究の最前線において、反証可能性の原則が、実際にはきわめて軽視されている現状に対して危機感をつのらせる人もいる。例えばリース・モーリン博士は、現在の最前線における物理学の理論が、「どのような実験結果でも取り込めるほどパラメータが多い」ことを指摘したうえで、反証可能性を軽視している傾向を、「物理学の迷走」と断じている[49]。実際、モーリン博士が指摘するように、最近の素粒子物理、量子情報、物性理論等は極めて数学に近い様相を呈しているため反証可能性の原則を逸脱していることはしばし指摘される。また、特に、萌芽的な理論においては、実験がどんな結果を出してもそれを取り込めてしまうほどパラメータが多く、しかもそのパラメータの物理的な意味が不明確であることもしばしば指摘される。現在でも、このことを理由として権威ある雑誌への掲載が拒まれることがあるとされる[50]。但し、この傾向も最近では現実的な方向に、つまり反証可能性に偏重しない方向にシフトしつつある[50]


しかし、実はポパーは、仮説のアドホックな修正について全面的に禁止してなく、その修正により反証可能性の度合いを増やす場合に対し、受容可能としている。 [86]

決定不全の説明で繰り返し使われる事例として、海王星の発見がある。天王星が発見されたとき、その軌道がニュートン力学の予測とずれていることが観察された。そのとき天文学者たちはニュートン力学を放棄するという路線ではなく、未知の惑星があって天王星に影響しているという仮説をたてる路線を選び、これが海王星の発見につながった。

この問題はしばしば反証主義の難点として指摘される。しかし、その条件付きの修正が可能な場合、その仮説の修正は、その条件を満たすので認められる。[87]







英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「科学的方法」の関連用語

科学的方法のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



科学的方法のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの科学的方法 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS