檜山安東氏城館跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 07:10 UTC 版)
檜山安東氏城館跡 (秋田県) | |
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本丸跡 | |
別名 | 檜山城、霧山城、堀ノ内城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 安東氏 |
築城年 | 1456年(康正2年) |
主な改修者 | 多賀谷氏 |
主な城主 | 安東氏、佐竹氏(小場氏、多賀谷氏) |
廃城年 | 1620年(元和6年) |
遺構 | 曲輪、土塁 |
指定文化財 | 国の史跡[1] |
位置 | 北緯40度9分46.88秒 東経140度7分16.65秒 / 北緯40.1630222度 東経140.1212917度 |
地図 |
- ^ a b 「檜山安東氏城館跡・檜山城跡・大館跡・茶臼館跡」文化庁公式HP
- ^ 沼館愛三は『出羽諸城の研究』のなかで、段築を基本とする城は威容が他を圧して弓矢の重層射撃には強いが、接近戦となれば死角を生じやすく、槍や刀が戦いの中心となってからは不利な面があると指摘している。また、山城は包囲されると食糧、水、退路に困るケースも少なくない。それに対し、『古戦場-秋田の合戦史-』(1981年)では、檜山城が湊合戦で150日以上の籠城に耐えたのは、出城を多く持つ、要害の地に立地した堅固な城であったとともに、食糧や万一の際の退路など、弱点を補うさまざまな配慮がなされていたと論じている。
- ^ 大高氏は安東氏の重臣。湊合戦の際には大高筑前が由利十二頭の赤尾津氏に派遣されている。なお、大高光忠という人物が南部氏側の史書『南部史要』に永禄元年(1558年)の安東氏との和睦の際の使者として登場する。
- ^ 秋田県では、後三年の役の際に籠城戦のあった県南内陸部の金沢周辺でも納豆が名物となっている。
- ^ 『北羽新報』2016年6月7日の紙面
- ^ 製鉄炉の送風管のこと。
「檜山安東氏城館跡」の続きの解説一覧
- 1 檜山安東氏城館跡とは
- 2 檜山安東氏城館跡の概要
- 3 概要
- 4 周辺遺跡・文化財
- 5 外部リンク
固有名詞の分類
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