板橋刑場 板橋刑場の概要

板橋刑場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/08 09:25 UTC 版)

歴史

慶応4年(1868年)、新選組の局長である近藤勇が平尾宿脇本陣で20日間留置された後、板橋宿の入り口にあった平尾一里塚近くの馬捨場(現在の北区滝野川)で斬首された[1]。首塚はないが、板橋駅滝野川口(東口)に供養碑が立てられている。なお、供養碑では「近藤勇宜昌(こんどういさみよしまさ)」となっているが、正しくは「昌宜」である。右側面には戦死者四十名、左側面には病死者、切腹、変死、隊規違反で処刑された人六十四名の名前が刻まれている。塔の左には無縁仏があり、右隣には慶応4年に作られた近藤勇の墓が、そして塔の建立者・永倉新八の墓もある。ただし、塔については松本良順が建てたとする説も存在する。また、五稜郭で戦死した土方歳三の供養碑がある。

外部リンク


  1. ^ a b 板橋宿には独立した刑場がなく、宿場の馬捨場が利用されたとする説がある(塩見鮮一郎『江戸東京を歩く 宿場』155-156頁)。


「板橋刑場」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「板橋刑場」の関連用語

板橋刑場のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



板橋刑場のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの板橋刑場 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS