東大寺大仏殿の戦い
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補説
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- 1988年(昭和63年)から実施された国宝木造金剛力士立像の解体修理で、永禄10年4月24日の夕刻より東大寺の南大門周辺で行われた銃撃戦の物と思われる銃弾が発見された。
- 松永軍が由緒ある寺院を焼き払っている時、大和は日照りが続いていたようで、これに農家は困惑していた。当時の状況を『多聞院日記』によると、雨が降らないのは「悪業増盛」のためであると記載されている。また、筒井軍の中にも連日の暑さのためか気が緩んだ者がいたらしく、密かに松永軍と通じていた者がおり、順慶自身に断罪される者もいたようである。
- また久秀が寺院を焼いたのは、陣地として使用されることがないように戦術的な目的で焼き払ったと思われているが、一部松永軍が乱暴した結果焼失した寺もあったようで、これら含め『多聞院日記』の「悪業増盛」との記載に繋がっているとする見方もある。東大寺大仏殿の戦いが続いている中、奈良の各寺社では雨を願う祈祷が行われていたようである。
- この祈祷降雨の験(げん)があったのか、永禄10年10月8日の夜から9日の朝まで雨が降っていたようで、『多聞院日記』には、後に松永父子が自害する天正5年(1577年)の信貴山城の戦いでは同じ10月10日から翌11日かけて雨が降っていたと記載されているので、「東大寺大仏殿の戦い」も10月8日以後、断続的に雨が降っていたのではないかと思われている。しかし、大和は連日の日照り続き、乾燥していた寺院の火の勢いを弱める程の効果はなかったようである。
- 阿波公方側史料によると、足利義栄死後の足利義助の上洛行動を小笠原成助に阻止されたことは、三好三人衆にとっては、(成助の義兄弟(姉婿)である)松永久秀に対するこの上ない反発を煽り、その結果南都で戦乱になったとある。
固有名詞の分類
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