日本飛行学校 日本飛行学校の再建

日本飛行学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/03 00:38 UTC 版)

日本飛行学校の再建

日本自動車学校では1921年(大正10年)2月の航空科の設置後、1923年(大正12年)にはさらに操縦科を加えると、陸軍立川飛行場の西部分に許可を得て飛行練習場を開設。翌1924年(大正13年)3月27日には航空科を独立させ、ついに日本飛行学校を再建した。操縦教官には日本自動車学校卒業生であり、当時陸軍の所沢航空学校で指導していた小川寛爾飛行士を招聘している[32][33]

飛行士の育成を再開した相羽は続いて航空輸送事業を開始。1928年(昭和3年)9月には東京航空輸送社を設立[注 11]した。1933年(昭和8年)12月には日本飛行学校の分教場(飛行練習場)が立川飛行場から羽田空港内[注 12]に移転。共同創設者の玉井清太郎が命を失った事故から16年の月日を経て羽田の地に日本飛行学校が帰ることとなった。

以降多くの飛行士を輩出し、1944年(昭和19年)夏までは生徒を募集していることが官報[35]により確認されているが、第二次大戦の終戦後はGHQの発した航空禁止令によって軍民を問わず航空機の飛行、製造、研究まで一切を禁止されたため、解散したと推定される。

1928年の状況

設置学科

  • 正科(2ヶ月)- 修身、理化学、電気学、発動機学、飛行機構造学、気象学、自動車構造学、自動車操縦法。
  • 操縦科(正科+4ヶ月=6ヶ月)- 修身、気象学、飛行機構造学、発動機操作法、飛行機操縦法、飛行機製作及び修理法。

学費等

学費は正科が入学金5円、授業料20円(2ヶ月分)、実習費100円(2ヶ月分)。操縦科(正科卒業者のみ)は授業料40円(4ヶ月分)、飛行実習費は1時間120円。生徒数は正科11名、操縦科7名、職員数13名。所在地は東京府蒲田町蒲田新宿十番地。分教場(飛行練習場)は東京府立川町三四四二番地。以上1928年(昭和3年)当時の内容[36]

1933年の状況

設置学科

  • 正科(2ヶ月)- 修身、飛行機構造学、航空力学、発動機学、気象学、自動車操縦術。
  • 操縦科(正科+4ヶ月=6ヶ月)- 修身、飛行機構造学、航空力学、発動機学、気象学、飛行機製作及び修理法、飛行機操縦術。

学費等

学費は正科が入学金5円、授業料10円、実習費70円。操縦科(正科卒業者のみ)は授業料40円、飛行実習費は1時間60円。職員数21名。所在地は東京市蒲田区新宿町一〇番地。以上1933年(昭和8年)当時の内容[37]

エピソード

戦前から銀座六丁目で店を続ける銀座風月堂の女将・横山秀子は、自身が16歳の頃(1935年前後)に府立第六高等女学校の生徒ながら放課後は羽田の日本飛行学校に通い、男性に交じって教習を受けた。当時の授業料は学科が無料で飛行実習が一時間40円だったと戦後語っている[38]が、当時としてもかなりの高額だったため一日に飛べる時間は十数分。離陸の瞬間から着陸まで時計で時間を計りつつ、一回3分の飛行を一日4回ほど繰り返して練習した。練習機は木製ボディに布張り翼のアブロ式。18歳の春には二等飛行士の免許を取ったが、当時女性に職業飛行士の道は無く21歳で結婚。終戦後の1953年(昭和28年)、33歳になった秀子は戦前同様に趣味で事業用飛行機操縦士の免許を取り直し(免許制度が変わった為)戦後の女性飛行士第一号となった[39]


注釈

  1. ^ 蒲田の日本自動車学校内に再建。当初飛行練習は立川飛行場で行われていたが、1933(昭和8)年末に羽田の飛行場へ移った。
  2. ^ 1889(明治22)年生。1911年友野鉄工所設立。後に(株)友野鉄工所社長、東京府議都議を歴任[2]
  3. ^ この話がまとまった日が8月10日[5]と言われ、後に日本飛行学校の設立日とされる。当初清太郎は稲毛海岸で玉井飛行練習所の看板を掲げたが、有が共同での飛行学校設立を提案したという話もある[6]
  4. ^ 1916年(大正5年)10月5日、三本葭飛行場に集まった人々の目前で玉井式2号機の初飛行を披露した。清太郎はその日を日本飛行学校の創立日としている[8]
  5. ^ 第一期生、長田正雄(21)、石橋熊一(22)、山川欣一(19)、長谷川常芳(20)、信田五平治(18)、青木繁(19)、以上6名。第二期生として円谷英二や最年少の辻村泰作(16)など5名[6]。初期の練習生としては他にも片岡文三郎や上野艶子その他の名前も挙がる[10][11]
  6. ^ 卒業までは当初3ヶ月という触れ込みだったが、実際には半年以上[14][15]かかったようだ。
  7. ^ 左翼側支柱ソケットの熔接箇所の破壊から主翼の折損に繋がっており、機体の脆弱性が指摘されている[18]
  8. ^ 流された機体は千葉県の行徳海岸まで漂流し、漁師たちに発見された[21]。後日発動機のみ回収されている。
  9. ^ 以前から飛行学校の看板を上げつつも、飛行家志望者10名に対し自動車運転手志望者は100名超の状態であり、実態に合わせて学校の名称を変更したとも言える[7]
  10. ^ 自動車教習所としては鈴木靖二により1916年(大正5年)に設立された東京自動車学校[28]が日本初とされる。それ以前にも明治末頃から自動車販売業者が販売促進のために運転技術を教えていた事例などがある[29]
  11. ^ 日本飛行機製作所を前身として東京航空輸送社が誕生した[34]。東京航空輸送社の所在地は蒲田の日本飛行学校事務所内である。
  12. ^ 相羽有は空港の造設に際し自身の所有地を供出し滑走路や建物の配置などについて助言をするなど大きく貢献していたため、空港敷地内に代替地が与えられた。
  13. ^ 後に独立し片岡飛行学校を設立。
  14. ^ 雑誌「飛行界」に載った女流練習生募集の広告を見て応募してきた十数名から選ばれた。自動車運転免許は取得したものの飛行機操縦士の資格取得や卒業には至っていない。
  15. ^ 所在地は蒲田の日本自動車学校内、立川に分教場(練習場)[1]

出典

  1. ^ a b c d 本間 1932, p. 128.
  2. ^ 『産経日本紳士年鑑 第1版』友野直二 p.199 産経新聞年鑑局、1958年
  3. ^ 日通 1993, p. 88.
  4. ^ 『日本の航空50年』 p.170 酣灯社、1960年
  5. ^ a b 日本交通協会 1973, p. 40.
  6. ^ a b c 野沢 1980.
  7. ^ a b c 大田区 1996, p. 428.
  8. ^ 大田区 1996, p. 485.
  9. ^ 近藤 2017, p. 2.
  10. ^ 『翼の誕生』 p.74 東華社書房、1943年
  11. ^ a b 日本交通協会 1973, p. 41.
  12. ^ a b c 本多猪四郎 著「特撮の魔術師・円谷おやじ(初出 『文藝春秋』昭和45年4月号)」、竹内博 編『本多猪四郎全仕事』朝日ソノラマファンタスティックコレクション〉、2000年5月1日、108頁。ISBN 4-257-03592-7 
  13. ^ 日本航空協会 1973, p. 41.
  14. ^ 飛行少年 3(1) p.138 日本飛行研究會 (1917年1月)
  15. ^ 飛行少年 3(7) p.101 日本飛行研究會 (1917年7月)
  16. ^ 大田区の文化財 第19集 p.111 大田区教育委員会 (1983年)
  17. ^ a b 日本交通協会 1973, p. 42.
  18. ^ 航空協会 1936, p. 706.
  19. ^ 航空協会 1936, p. 708.
  20. ^ 航空協会 1936, p. 709.
  21. ^ 日通 1993, p. 89.
  22. ^ 『国民年鑑 大正7年』 p.447 民友社出版部、1917年
  23. ^ 『婦人週報 3(40)』 p.19 婦人週報社、1917年10月
  24. ^ 明治 1956.
  25. ^ 『日本民間航空史話』財団法人日本航空協会、1966年6月1日、31頁。 
  26. ^ 自動車 2(4) p.42 帝国自動車保護協会 (1919年4月)
  27. ^ 科学世界 11(1) p.77 科学世界社 (1917年9月)
  28. ^ 『入学選定男女東京遊学案内と学校の評判』p.20 二松堂書店 (1918年)
  29. ^ 日本自動車工業史稿 第2 p.58 自動車工業会(1967年)
  30. ^ 『新聞総覧 大正12年』 p.72 日本電報通信社、1923年
  31. ^ 『東都学校案内 訂20版』 p.338 三省堂、1928年
  32. ^ 大田区 1996, p. 486.
  33. ^ 『日本更生史 : 教育勅語煥發四十年記念』 p.152 日本更生史編纂局、1930年
  34. ^ 帝国 1940, p. 395.
  35. ^ 官報 第5285号 (1944年8月25日)
  36. ^ 『東都学校案内 訂20版』 p.339 三省堂、1928年
  37. ^ 『標準東都学校案内 昭和8年度版 男子部』 p.236 春陽社、1933年
  38. ^ 『サングラフ 6(5)(52)』 p.10 サン出版社、1956年5月
  39. ^ 『新聞月鑑 = News mirror 5(57)』 p.81 新聞月鑑社、1953年10月
  40. ^ 久保田 1931, p. 80.
  41. ^ 『職業別電話名簿 第22版』 p.1434 日本商工通信社、1932年


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