山崎氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 16:23 UTC 版)
その他の山崎氏
越前国の山崎氏
越前国の一族。赤松氏の一族で、『山崎家譜』によれば、赤松則村の子赤松氏範の子孫の肥前守某が山城国山崎村に定住し村名をもって姓にしたと伝える。その七世の孫、長時に至って越前に下り朝倉孝景に仕えた。山崎吉家など。朝倉氏と共に滅亡したが、生き残りの山崎長徳が明智光秀・佐久間安政を経て前田利長に仕え、以後、子孫は金沢藩前田氏の重臣として明治まで続いた。
駿河国・相模国の山崎氏
駿河国相模国の一族。藤原氏の一族で、室町末期に京より甲斐の武田家・駿河の今川家や庇護を受け下野。その後一族が今川氏より駿河府中近郊に領地を与えられ静岡で在郷化し土着。庇護を受けていた本家筋は今川氏の滅亡後、徳川氏の庇護へ。その後、後北条氏滅亡後の荒廃していた御厨地方奥地を郎党を率いて開発し移住。その地方の小田原藩の年貢を管理する大庄屋に。一族は名前を変え、朗党は山崎一党として周辺地域へ移住。
薩摩国の山崎氏
薩摩国の一族。伊佐郡山崎郷。応永年間に祁答院重茂の三男重道が山崎を領して山崎氏と名乗ったと言われているが祁答院氏の没落と共にその地からいなくなる。祁答院氏は島津氏に敗れ大友氏を頼って日向・豊後へ。
武蔵国の山崎氏
土佐国の山崎氏
土佐国の一族。門脇公家の流れ。戦国時代、京都から赤鬼(あかえ)あるいは兵庫という人物が土佐国安芸郡室津村(現在の室戸市室津)に落着。その子山﨑山重(通称:勘解由左衛門)が長宗我部元親公に従い、槇山郷(旧物部村)山﨑を領し、その地の高瀬(現在の塩集落)に住した。これ以後、山﨑姓(読みは「やまさき」)を名乗った。家紋は丸に五本骨日の丸扇。槇山山﨑城を根城とした。山重に太四郎という弟がおり、逆川土居(旧土佐山田町)に住していた。山重は9人の男子をもうけ、各人が旧土佐山田町(東川、佐古藪)、奈半利町、旧香我美町(山川、正延)、高知市(鴨部、薊野、大津)、佐川町(本三野)などに開拓移住した。その長男玄蕃丞と五男惣兵衛、傳兵衛は天正14年の戸次川の戦いで討ち死にした。彼らの名は「於豊州信親公忠死御供之衆鑑板」に印刻されている。旧物部村山﨑の塩集落に総本家があり、そこで先祖八幡が祀られている。また、いざなぎ流神道の天の神様・御崎様を祀っている。
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