小菅神社 (飯山市)
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柱松柴灯神事
柱松柴灯神事(はしらまつさいとうしんじ)は、小菅神社の主要な神事であり、かつては毎年7月15日に行われていた。現在では、3年に1度、7月半ばの日曜に催行される。松子とも呼ばれる。国の重要無形民俗文化財(指定名称は「小菅の柱松行事」)。
小菅神社里宮講堂の前の広場で、雑木を藁で束ねた高さ4mの柱松2本を立てる。この2本の柱に松神子が登り、火打石と火打金を使って点火するまでの速さを競い合う。東が勝てば天下泰平、西が勝てば五穀豊穣を約する験が示されたとされる。豊作祈願に合わせて修験者が行った験比べが今に伝えられたものと言い伝えられる。
交通機関
文献
- 平凡社、1979、『長野県の地名』、平凡社(日本歴史地名大系第20巻)
- 飯山市文化財編纂委員会、2002、『飯山市の文化財』、ほおずき書籍 ISBN 4434018558
- 重要文化財小菅神社奥社本殿修理委員会編、1968、『重要文化財小菅神社奥社本殿修理工事報告書』、飯山市教育委員会
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、1990、『長野県』、角川書店(角川日本地名大辞典20) ISBN 4040012003
- 信濃史料刊行会編、1952-1972、『信濃史料』、信濃史料刊行会
- 信州大学・飯山市小菅研究グループ編、2005、『飯山小菅の地域文化 — 小菅総合研究シンポジウム』、しなのき書房 ISBN 4903002004
関連項目
外部リンク
- ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 73-74]。
- ^ a b こうした隆盛期の小菅山を描いた絵図として、1566年(永禄9年)の銘がある元隆寺之図が知られている。この図では、上之院19坊、中之院19坊、下之院11坊をかぞえ、これらを統括する本坊大聖院には19の末院があったとされている。だが、既述の1561年(永禄4年)の川中島の戦いの兵難とこの絵図は年代が矛盾している。また、僧坊の名や、石垣の位置など年代と符号せず、疑問とすべき点も多い。こうしたことから、この絵図は、小菅の繁栄を示すため、近世になってから遡及的に描かれたものである可能性があり[信州大学・飯山市小菅研究グループ編 2005:76-77]、この絵図の史料としての信憑性には留保が必要である。
- ^ 『信濃史料』第7巻。
- ^ 『信濃史料』第8巻。
- ^ 『信濃史料』第13巻。
- ^ 「小菅神社所蔵棟札銘写」および「小菅神社所蔵鉄製鰐口」、いずれも『信濃史料』第17巻所収。
- ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 78-79]。
- ^ 文化庁監修『解説版新指定重要文化財 11 建造物I』(毎日新聞社、1981)、p.74
- ^ 飯山市文化財編纂委員会[2002: 88-133]。
- ^ 信州の文化財(公益財団法人八十二文化財団)
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