八七会 主な活動内容

八七会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 15:00 UTC 版)

主な活動内容

活動の主な内容は次の四つに分類される。

  • 供養行事
    • 毎月7日と20日に供養塔の清掃と周囲の整備を実施[2]
    • 毎年8月7日に全国から集まる遺族とともに慰霊祭を実施[2]
    • 毎年春秋彼岸供養と盆供養(8月13日)、年末供養(12月31日)を実施[2]
  • 語り部としての活動
    • 東三河周辺の小学校、中学校、高校などに出向きまたは招かれて語る[2]
    • テレビ、新聞などの報道機関の取材に協力、調査に同行する。またその他の企画で空襲体験者として語り継ぐ[2]
  • 工廠と空襲の記録を残す活動
    • 空襲の記録をビデオや出版物として残す。現存する戦争の傷跡を記録する[2]
  • 記念館建設にむけての活動

刊行物

  • 大島信雄編『豊川空襲全殉難者名鑑 豊川海軍工廠(愛知県豊川市)壊滅』八七会、1987(昭和62年)8月7日。 
    • 巻頭挨拶:山本芳雄豊川市長(八七会名誉会長)、彦坂実会長
    • B5叛、341ページ。2,800人を超える被害者(死者)を五十音順に並べ、本籍地、家族構成、空襲当日の行動などを記載する[10]
  • 企画編集(株)スタンバイ『『語り継ぐ豊川海軍工廠大空襲』』(VHS記録映画)八七会、愛知県豊川市、1992年4月1日。 
    • 「このビデオの収録について」:中村伊井佐久(八七会顧問)
    • 内容:工廠の生いたち、養成工員の生活、女子挺身隊の証言、慶応大学学徒の証言、俳優故佐田啓二 さんの入院生活、俳優下元勉さんの手紙、8月7日の惨状、桜ケ丘高校引率教員の証言、藤の花女女学校の父兄の証言、遺体収容の6年後の発掘の証言。
  • 彦坂実編集『元海軍工廠戦没者供養塔 写真集「平和の礎」』八七会、1993(平成5年)8月7日。 
    • A4叛、21ページ。戦没者供養塔、永代供養霊位、慰霊祭、彼岸供養、盆供養、御霊祭その他の写真を載せる。被害者の氏名の刻まれた台座部分も全員分掲載している。
  • (株)スタンバイ編『豊川海軍工廠の記録~陸に沈んだ兵器工場(豊川海軍工廠被爆50周年)』八七会、1995(平成7年)8月7日。 
    • 巻頭挨拶:彦坂実会長 発刊に寄せて:田中泰男豊川市長
    • A4叛、190ページ。豊橋市の出版社「スタンバイ」(水谷真理代表取締役)が編集を担当した。二千冊印刷。4000円。第一部は、豊川海軍工廠の誕生から壊滅、戦後処理までをまとめている。第二部は59人の手記も載せている[11]
    • 1996年(平成8年)豊川市まちづくり協議会より文化奨励賞を贈呈されたのは、本書の出版が評価されたものである[12]
  • (株)スタンバイ編『豊川海軍工廠の記録~陸に沈んだ兵器工場 再発行改訂版(豊川海軍工廠被爆70周年)』これから出版、2005(平成17年)8月7日。 
    • 巻頭挨拶:大石辰己会長 復刊に寄せて:山脇実豊川市長
    • A4叛、193ページ。豊橋市の出版社「これから出版」(旧スタンバイ)が、八七会の戦後の歩みなどを加筆して、千部を再発行した[13]

退潮期

1981年(昭和56年)当時の会長柴田司郎は八七会幹部の高齢化を心配し、豊川海軍工廠工員養成所出身者で結成する豊養会に協力を要請した。1983年(昭和58年)には工員養成所第4期生の彦坂実が第5代会長に就任した。この頃までは豊川海軍共済病院の関係者が中心メンバーであり、また、会長と言っても名誉職的なところがあった。養成所出身者が会長になったことは会の中心が次の世代に移ったことを意味した。このころより石碑の建立が毎年のように行われ、次代への継承がより意識されていく。

2005年(平成17年)8月7日、60周年の慰霊祭を最後のものとし、以後慰霊祭を行わないこととなった。最年少の会員が70代となっており苦渋の決断であった。毎年の慰霊祭がなくなった後も、供養塔の清掃、犠牲者の供養、語り継ぎ活動は継続された。

2009年(平成21年)6月に彦坂会長が亡くなり第6代に大石辰己が就任すると、翌年の役員会で豊川市に平和公園を造る計画が話題となった。語り継ぎの拠点である記念館の建設は長らく会の悲願であり、その実現に向け、体験を語り、平和への思いを伝えることで支援することとなった。また、豊川海軍工廠語り継ぎボランティアの養成にも協力した。

2018年(平成30年)の豊川海軍工廠平和公園開園に際して、放送設備とともに多くの関連書籍や資料を寄贈。その書籍は園内の豊川市平和交流館にて「八七会文庫」として顕彰公開されている。

2021年(令和元年)9月大石会長が急逝。会員が高齢化した八七会は次の会長を選出することなく、翌年8月7日、会としての活動を終了した。[3]


  1. ^ “戦後75年:豊川海軍工廠空襲 生存者の会「八七会」活動終了 供養塔、豊川稲荷に託す 「記憶も後世に伝えて」 /愛知”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2020年8月6日). オリジナルの2020年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200928232517/https://mainichi.jp/articles/20200806/ddl/k23/040/138000c 2023年12月4日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h 八七会『「豊川海軍工廠の記録 陸に沈んだ兵器工場」』八七会、1995年8月7日。 
  3. ^ a b c d 八七会刊「八七会の思い出」リーフレット
  4. ^ 総務省> 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 豊川市における戦災の状況(愛知県)
  5. ^ a b 彦坂実『八七会六十年のあゆみ』八七会、2005-8-7 ※12頁の簡易冊子。 
  6. ^ a b c 大島信雄『追補 豊川海軍共済病院の記録』大島信雄、1984年8月7日。 
  7. ^ 辻豊次 編『ああ豊川女子挺身隊 : 8.7豊川海軍工廠の悲劇』甲陽書房、1963年。 
  8. ^ a b 豊廠五期会編『あゝ吾れら見習健男児』五期会、1982年11月7日。 
  9. ^ 豊田英男編『友魂』豊養会、1979年8月7日。 
  10. ^ “豊川工廠大空襲 死者3000人超 地元医師が独自調査 従来の『2500人以上』説塗り替え 民間の犠牲 次々判明”. 中日新聞. (2005年8月13日) 
  11. ^ a b “誕生から壊滅…戦後処理まで 『豊川海軍工廠の記録』出版 空襲50年を機に生存者”. 中日新聞. (1995年8月3日) 
  12. ^ a b “舞踏松井さんらに豊川市の文化奨励賞”. 中日新聞. (1996年2月24日) 
  13. ^ “海軍工廠の本を復刊 豊川 八七会、戦後の歩み加筆”. 中日新聞. (2015年6月29日) 
  14. ^ 豊川市教育委員会「豊川海軍工廠関連年表」『豊川海軍工廠平和後年内残存遺構保存整備事業報告書』、豊川市教育委員会、2019年3月。 
  15. ^ 豊川公園「平和の像由来記」碑文参照
  16. ^ “豊川海軍工廠の戦没者安らかに、慰霊碑を除幕”. 中日新聞. (1992年12月31日) 
  17. ^ “通風筒”. 中日新聞. (1992年5月12日) 
  18. ^ a b “戦後60年 8・7大空襲 2600人魏税 豊川海軍工廠慰霊祭 今年限り 高齢化で継続困難 取材団体苦渋の決断”. 中日新聞. (2005年8月5日) 
  19. ^ 豊川市ホームページ:豊川海軍工廠平和公園開園 
  20. ^ 豊川市ホームページ:市制施行76周年記念 被表彰者等一覧 
  21. ^ 豊川市ホームページ:市制施行77周年記念 被表彰者等一覧 





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