中原基兼 中原基兼の概要

中原基兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/21 14:16 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

安元元年(1177年)6月4日、鹿ケ谷の陰謀に加担したとして、平清盛によって解官され、清盛の屋敷に法皇近習5名と共に連行される。奥州へ配流された後、藤原秀衡の庇護を受け彼の国を廻っていたという。九条兼実は『玉葉』(文治3年9月29日条)で、基兼をかつての法皇の近臣で「凶悪人」と書いている。

文治3年(1187年)4月、奥州へ圧力をかける源頼朝が秀衡に対し、基兼の身柄を京に戻すよう要請し、秀衡が拒否するというやり取りがなされている。

参考文献




「中原基兼」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中原基兼」の関連用語

中原基兼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中原基兼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中原基兼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS