ポール・ムニ 略歴

ポール・ムニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/10 02:08 UTC 版)

略歴

オーストリア=ハンガリー帝国ガリツィアのルヴフ(現在はウクライナリヴィウ)でユダヤ系の家庭にメシレム・マイエル・ヴァイゼンフロイント(Meshilem Meier Weisenfreund)として生まれる。彼が7歳の時に家族でアメリカに移住した。両親はイディッシュ演劇に出演する俳優であり、彼も12歳の時からイディッシュ語舞台に立っていた。29歳でブロードウェイに進出、英語での舞台に立つようになる。1929年にFOXと契約、出演した『The Valiant』でアカデミー賞にノミネートされる。その後企画への不満などからブロードウェイに戻るが、1932年にハワード・ホークス監督たっての希望で同監督のギャング映画『暗黒街の顔役』に主演、凄みの利いた演技で一躍スターダムにのし上がる。同年ワーナー・ブラザースと契約し、1936年の『科学者の道』でアカデミー主演男優賞を受賞。彼はこの作品でヴェネツィア国際映画祭の男優賞も獲得している。その後舞台と映画の両方で活躍、1956年にはトニー賞を受賞。1959年の『The Last Angry Man』で5度目のアカデミー賞ノミネートの後、引退した。

人物

生涯に出演した映画作品は僅か25本に過ぎないにもかかわらず、アカデミー賞だけでも5回ノミネートされているのは特筆に値する。これは彼の演技に対する真摯な姿勢と、細心の注意を払った役作りの賜物と言われている。だが、それだけに性格的には気難しい一面もあり、撮影現場で度々得意のバイオリンを演奏し、場を和ませることがあった一方で、赤い服を着ている人を見ると決まって激怒した、というエピソードも伝えられている。なお、1941年に契約上の問題からワーナーを離れたが、彼が演じる予定だったと言われる『ハイ・シェラ』のロイ・アール役を演じてスターになったのが、ハンフリー・ボガートである。

主な出演作品

公開年 邦題
原題
役名 備考
1932 暗黒街の顔役
Scarface
トニー
仮面の米国
I Am a Fugitive from a Chain Gang
ジェームズ・アレン
1934 彼の第六感
Hi, Nellie!
ブラッド
1935 国境の町
Bordertown
ジョニー・ラミレス
黒地獄
Black Fury
ジョー
1936 科学者の道
The Story of Louis Pasteur
ルイ・パスツール アカデミー主演男優賞 受賞
ヴェネツィア国際映画祭男優賞 受賞
1937 大地
The Good Earth
王龍
ゾラの生涯
The Life of Emile Zola
エミール・ゾラ
1939 革命児ファレス
Juarez
ベニート・フアレス
静かなる抵抗
We Are Not Alone
デヴィッド・ニューカム
1942 暁の勝利
Commandos Strike at Dawn
エリック・トレセン
1943 ステージドア・キャンティーン
Stage Door Canteen
本人
1945 楽聖ショパン
A Song to Remember
ユゼフ・エルスネル

  1. ^ Emma Finkel”. 2nd AVENUE ONLINE. 2011年10月12日閲覧。


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