ブータン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/24 13:15 UTC 版)
戦争の影響
ブータンの喪失した領土は、主にトンサ・ペンロップの治める地域であり、またドゥアールの喪失はその富の喪失に直結した[13]。そのため中央集権国家を目指したジグミ・ナムゲルの構想は破綻する。ジグミ・ナムゲルはこれまでの方針を改め、1870年にトンサ・ペンロップの位を兄に譲り、自らは形骸化したデシに就任した。ジグミ・ナムゲルは相次ぐ裏切りや蜂起を鎮め、デシを退いた後も晩年の1879年まで国家の舵を取り続けた[24]。その没後も内乱は継続したが、1885年にウゲン・ワンチュクがチャンリミタンの戦いで勝利してブータンの内乱が終結する[25]。
戦後、イギリスがブータンに求めた役割はチベット周辺との交易路であり、周辺国との緩衝地帯だった[26]。そのためブータンの国内事情には終始無関心であり、内乱にも干渉せず結果としてブータンの統一が達成された。新たなブータンの指導者ウゲン・ワンチュクはイギリスの支援の重要性を認識し[26]、積極的に使節団を派遣した。またチベットとの交渉では仲介役を受け持つなどイギリスに好印象を与え、1905年にはイギリス・チベット条約への功績が讃えられて等勲爵士が授与された。1907年にはデシが廃止されてブータン王国が成立すると、1910年にはプナカ条約を締結してイギリスの保護下に入る[27]。これにより外交を委ねる代わりに内政不干渉と補償金倍増を獲得し、以降、ブータンの国内情勢は安定した[27]。
参考文献
書籍
- ブータン王国教育省教育部編、平山修一監修、大久保ひとみ訳、『ブータンの歴史(世界の教科書シリーズ)』 野崎孝訳、明石書店、ISBN 978-4-7503-2781-5、2008年4月
- ^ ブータン(2008,225)
- ^ a b Singh, Nagendra; Jawaharlal Nehru University (1978). “Appendix VII – The Treaty of Sinchula”. Bhutan: a Kingdom in the Himalayas : a study of the land, its people, and their government (2 ed.). Thomson Press Publication Division. p. 243 2011年8月25日閲覧。
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- ^ a b Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900. .
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- ^ a b ブータン(2008,254)
- 1 ブータン戦争とは
- 2 ブータン戦争の概要
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