フランクリン・ルーズベルト
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その他
- 1911年にニューヨーク州のホーランド・ロッジNo.8でフリーメイソンに入会[69][70]。
- 1913年にエレノアの社交秘書を務めたルーシー・マーサー・ラザーフォード と恋仲となり、一時はエレノアとの離縁も考えていた。後に別の男性と結婚するが未亡人となったルーシーは、大統領在任中のルーズベルトと再び秘密裏に交際するようになり、1945年の急死時も付き添っていて最期を看取った[3][71]。従姉妹のマーガレット・サックリーとも親密な間柄であった[5]。
- 1921年8月10日にカナダ・カンポベロ島の別荘でポリオを発症する。その後遺症により下半身がほとんど麻痺し、日常生活では車椅子を常用していた。生前は車椅子姿を見られるのを非常に嫌ったため、訪問先の植木や立ち木をカムフラージュのために植え替えさせるなど、自身の障害を知られないよう事細かく指示した。また、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、ルーズベルトに障害のあったことは当時のアメリカ国民にはほとんど知られなかった。車椅子姿をとらえたメディアはほとんど無く、写真が2枚ほど残されているだけである。
- ルーズベルトが実際に罹患したのはギラン・バレー症候群であったと推測する症状比較研究がある[72]。それによれば、彼の症状の8項目のうち6項目についてはギラン・バレー症候群の症状との整合性が高く、2項目についてはポリオとの整合性が高かったという。しかし、ルーズベルトの脳脊髄液は採取されなかったので、正確なことは分かっていない。
- 2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられた[要出典][73]。
- 第二次世界大戦中の1942年、連邦政府職員とその家族のための保養所として1938年に開設されたハイ・キャトクティンを大統領専用の別荘兼避難所に選定し、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場するユートピアにちなんでシャングリラに改名した(後にキャンプ・デービッドに改称)[74]。
- 1944年9月23日、ワシントンD.C.で大統領選挙戦を開始したスピーチは「ファラ・スピーチ」と呼ばれる。アリューシャン列島にアメリカ海軍の駆逐艦を派遣して愛犬のスコティッシュ・テリアのファラを迎えに行かせたという批判に言及したため。
- 肖像は、米国の10セント銀貨に採用されている。
- 切手収集家としても有名であり、在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、実現させたのみならず、デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、枢軸国に占領された国の国旗切手など)。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、販売カタログに切手の一部しか載せないとした規制に柔軟に対応させるように法改正を進めた[要出典]ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、関与した切手や導入させた施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている[要出典]。またモナコで戦後発行された追悼切手には切手を整理するルーズベルトの姿が描かれている。
- 推理小説の大ファンでもあり、シャーロック・ホームズ愛好家の団体ベーカー・ストリート・イレギュラーズの会員であった。また、彼自身が思いついたプロットでS・S・ヴァン=ダインらが『大統領のミステリ』と題するリレー長編を執筆した[要出典]こともある。
- ハーバート・フーヴァーは自著『裏切られた自由』において、1946年5月にダグラス・マッカーサーと会談し、「我が国は、この戦いの重要な目的を達成して日本との講和が可能である。(早い時期に講和していれば、その後の)被害はなかったし、原爆投下も不要だったし、ロシアが満州に侵入することもなかった」とマッカーサーに語り、「日本との戦争が、狂人が望んだものだというと、マッカーサーは同意した」と記述しており、マッカーサーもそれに同意して「ルーズベルトは1941年9月には近衛文麿との講和が可能だった」と述べたと、ルーズベルトについて手厳しく批判を重ねている[75]。
- 歴史学者・政治学者のチャールズ・ビアードは、「1941年11月25日、この最後通牒が日本に通達される前日、暫定協定に関する結論がまだ出ていなかったはずの時間に、ルーズベルト大統領とその戦時内閣は平和の展望ではなく、戦争について、戦争をどのようにして始まるかを巡って議論をしていたのだった」[76]と述べ、対日強硬策をとったハル・ノートを批判した[77]。
- 当時下院議員だったハミルトン・フィッシュは、戦後ハル・ノートの存在を知り、ルーズベルトを非難した[78]。
- 1938年の夏、ルーズベルト大統領とスミソニアン博物館が共同実施した調査航海[79]によって得られた標本を元に、ヨコエビのNeomegamphopus roosevelti (Shoemaker 1942) という種が記載された[80]。
- 野球好きで知られ、ニューヨークタイムズの記者に送った手紙に「一番面白い野球のスコアは8対7だ」と記した[81]。このエピソードから8対7の試合のことを「ルーズヴェルト・ゲーム」という。[82]
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