ハリーナ・セブロク ハリーナ・セブロクの概要

ハリーナ・セブロク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 09:27 UTC 版)

ハリーナ・シルヴェストリヴナ・セブロク
Севрук Галина Сильвестрівна


uk
中:ハリーナ・セブロク、タブロイド新聞『文化と生活』紙の表紙より[注釈 1]
誕生日 (1929-05-18) 1929年5月18日
出生地 ウズベキスタンサマルカンド[1]
死没年 (2022-02-13) 2022年2月13日(92歳没)
死没地 キエフ
墓地 キーウ
国籍 ソビエト連邦 ウクライナ ウクライナ人
流派 装飾美術
芸術分野 陶製の壁面彫刻、モザイク、ペン画、ステンドグラス
教育 国立キエフ芸術研究所(wikidata)(1952年-1959年[1]
出身校 セフチェンコ美学校(wikidata)(1947年-1949年、キエフ)
受賞 アンドレイ・シェプティツキー芸術賞(1994年 Andrey Sheptytsky Art Prize[2]
会員選出組織 ウクライナ芸術家連合(英語)(1968年除名、1989年名誉回復[2]
活動期間 1963年(『森の歌』)–
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タラス・シェフチェンコを主題にするように託されたステンドグラス作品『シェフチェンコの母』(1964年制作)は共産主義体制に反すると批判されて発注者に壊された。この件で芸術家連合の会員資格を剥奪されても公開書簡「139人の手紙」(1968年)に署名するなど主義を曲げないまま、展示活動を封じられた時期を経る。個展は1980年代半ばに初めて開き、芸術家連合の資格回復を得てウクライナの名誉ある芸術家章を受けている(2005年)。2022年2月13日にキーウで亡くなった。92歳であった[3]。かつて破却された国立キーウ大学のステンドグラスは、建学150周年の記念にタラス・シェフチェンコ館のロビーに復元・設置されている[注釈 3]

幼少期から青年時代

1929年5月18日、ウズベキスタンサマルカンド生まれ[1][5]。両親は強制移住の末、1920年からサマルカンドに滞在しており[5]ポーランド系の父シルベスター・マルティノヴィチ・セブロク(Sylvestr Martynovych Sevruk)は建築家。母のイリィナ・ドミトリウナ(Iryna Dmytrivna 旧姓 Hryhorovych-Barska)はウクライナ人で著名な建築家と血縁関係にあった[注釈 4]。一家は娘が生まれた翌年にウクライナ北東部最大の都市ハルキウに移り、1944年に再び移転してキーウ市に住まいを定めた[2]

経歴

芸術活動を目指すセブロクの道のりは画家のフリホリー・スヴィトリツキー(ウクライナ語)から絵画を学んだことに始まる。後年、その当時を懐かしんで、あの経験があったからこそ「ほんものの芸術家」になりたいと心に決めたと述べた[2]

1947年から1949年までキーウのセフチェンコ美学校[注釈 5]に通い、国立キエフ芸術研究所に進み卒業した(1952年-1959年[1][注釈 6])。在学中にシカゴ美術館の教員だったヴィクトル・プジルコフ[注釈 7]ほか著名な芸術家に指導を受けたものの、後年、自らが芸術に求めるものと一致しなかったと述べている[2]

1960年代には芸術基金の建築物装飾担当として働くと[1]、ウクライナの芸術や歴史、言語や文学の要素を作品に取り入れる感覚を研ぎすます。

芸術監督レス・タニュク(英語)[注釈 8]が設立した若手芸術家クラブ(キーウ[注釈 9])は5部に分かれ、文筆、美術、音楽、映像作品、劇場で構成された。ジャズバンド『Second Ukrainian Theater』も傘下にありキエフ大学(当時)の在校生も多かった。セブロクはここで志を同じくする芸術家に出会い、自らの発想を支持する仲間を見つける[2][7]。『森の歌』(1963年)を完成させると、一連のモザイク作品の制作が始まる。別のモザイクは『百合』(1964年)と題された。

同年、陶器も表現手法に取り入れると、やがて著名な作品を生み出すに至る。記念碑的な陶芸作品を制作し、『黒海ホテル』(オデッサ Chorne More Hotel)や『フミリヌィーク労働組合療養所』[注釈 10]などは同名の施設に設置された[1][2]


注釈

  1. ^ セブロクの写真左右は ヴァシル・ヴァシロヴィチ・オフシエンコ (1949年–2023年7月19日)と歴史家 セルヒイ・イワノビッチ・ビロキン(ウクライナ語)(1948年–2023年4月14日)、新聞の原題は『Культура і життя』第33号、2018年。前者はウクライナ・ヘルシンキ・グループの参加者で反体制運動の歴史家、ハリコフ人権団体の職員。自費出版と政治活動を続け、旧ソビエト連邦時代に強制収容所に収監された経験がある。後者(Serhiy Ivanovich Bilokyn)はウクライナの歴史家、資料学者、文献科学候補者、名誉科学功労者、ウクライナ国立科学アカデミー主任研究員(ウクライナ歴史研究所ウクライナ史20世紀後半部門)、キエフ・モヒラアカデミーの名誉教授を務めアメリカ没。
  2. ^ 人名のローマ字転写は Halyna Sylvestrivna Sevruk
  3. ^ ステンドグラス「シェフチェンコの母」(1964年)は当記事のウクライナ語版を参照。当初はウクライナ芸術家連盟キエフ地方委員会事務局(当時)の決定により価値はないと破却され、復元して再設置済みとのこと。ただし画像はウクライナ語版のライセンス制限のため、2090年代初頭まで他言語版で利用できないため。以下は写真投稿者(2021年3月14日時点)の解説による。「キーウ国立大学建学150周年を記念し、タラス・シェフチェンコ館の赤い建物のロビーに復元・設置された。破却の判断は「T・G・シェフチェンコの肖像を著しく歪め、中世のキリスト教イコンの精神を反映させ古臭い」であった。アーティストがソビエト連邦当時の世界観で主題を見せようと全く試みていない点によって、遠い過去に連れ戻される。」[4]
  4. ^ 母方の親戚はイワン・フリホロヴィチ=バルスキー(英語)ウィキデータ
  5. ^ セフチェンコ美学校 Державна художня середня школа імені Тараса Шевченка。Yurii Kyianchenkoに師事。
  6. ^ 国立キエフ芸術研究所、施設名Національна академія образотворчого мистецтва і архітектуриのローマ字転写 Natsionalʹna akademiya obrazotvorchoho mystetstva i arkhitektury。
  7. ^ ヴィクトル・プジルコフ、Пузирков Віктор Григорович
  8. ^ レス・タニュク(Les Tanyuk)の人名 ウクライナ語: Танюк Леонід Степанович のローマ字転写は、Tanyuk Leonīd Stepanovich。
  9. ^ キーウの若手芸術家クラブの原語表記はウクライナ語: Клуб творчої молоді。参加者のうち著名な人物を挙げるとロシア文献学者イヴァン・ジウバ英語版、詩人のエフゲニー・オレクサンドロヴィチ・スヴェルシュチュク (英語)とイワン・オレクシヨヴィチ・スヴィトリチニ(1929-1992)(英語)、詩人で報道人ヴァシル・アンドリヨヴィチ・シモネンコ(ウクライナ、1935-1963)(英語)、スタニスラフ・ヴォロディミロヴィチ・テルニュク(1935-1990)(英語)。 分野別には、絵画・彫刻は共作者でもあったアッラ・オレクサンドリナ・ホルスカ(1929 -1970)(英語)と夫でシェフチェンコ・ウクライナ国家賞を1994年に遺贈されたヴィクトル・イワノビッチ・ザレツキー(1925-1990)(英語)ほか。のちに共同制作した3名としてオパナス・ザリヴァハ[6]とリュドミラ・ミコラーイヴナ・セミキナ(1924-2021、シェフチェンコ・ウクライナ国家賞)(英語)、ハリーナ・オレクサンドリヴナ・ズブチェンコ(英語)に出会った。
  10. ^ フミリヌィーク労働組合療養所の原語表記は、Профспілковий клінічний санаторій Хмільник
  11. ^ ステンドグラス「シェフチェンコの母」(1964年)は当記事のウクライナ語版を参照。当初はウクライナ芸術家連盟キエフ地方委員会事務局(当時)の決定により価値はないと破却され、復元して再設置済みとのこと。ただし画像はウクライナ語版のライセンス制限のため、2090年代初頭まで他言語版で利用できないため。以下は写真投稿者(2021年3月14日時点)の解説による。「キーウ国立大学建学150周年を記念し、タラス・シェフチェンコ館の赤い建物のロビーに復元・設置された。破却の判断は「T・G・シェフチェンコの肖像を著しく歪め、中世のキリスト教イコンの精神を反映させ古臭い」であった。アーティストがソビエト連邦当時の世界観で主題を見せようと全く試みていない点によって、遠い過去に連れ戻される。」[8]
  12. ^ 恩師フリホリ・ペトロヴィチ・スヴィトリツキーの旧居「邸美術館 (Q12151270」、Світлицький Григорій Петрович
  13. ^ 固有名詞のローマ字転写 Muzeĭ Shistdesi︠a︡tnyt︠s︡tva

出典

  1. ^ a b c d e f g h i Strok, Danylo Husar, ed (1984). “Sevruk, Halyna”. Encyclopedia of Ukraine. 4. University of Toronto Press. p. 604 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Sevruk Halyna”. Ukrainian Unofficial. 2021年2月28日閲覧。
  3. ^ “Умерла скульптор-монументалист Галина Севрук [彫刻家・ 記念碑作家のハリーナ・セブロク死去”] (ウクライナ語). LB.ua. (2022年2月14日). https://rus.lb.ua/culture/2022/02/14/505555_umerla_skulptormonumentalist.html 2022年2月14日閲覧。 
  4. ^ file:Шевченко Мати (ескіз 1964).jpg 2022-02-14T13:28:56(UTC)時点における Rasal Hague による版。automatically checked
  5. ^ a b c Moskalenko, Svitlana; Natalia Tymoshenko(翻訳) (2021年3月3日). “A unique figure in Ukrainian culture!”. Софія Київська. 2021年3月18日閲覧。
  6. ^ Opanas Zalivakha、作品を映した写真ネガの国外流出の報道。
  7. ^ “Like any well-built work, Ukraine's history has its own composition” (英語). Den'. (2011年10月20日). https://day.kyiv.ua/en/article/culture/any-well-built-work-ukraines-history-has-its-own-composition 2021年3月18日閲覧。 
  8. ^ file:Шевченко Мати (ескіз 1964).jpg 2022-02-14T13:28:56(UTC)時点における Rasal Hague による版。automatically checked
  9. ^ Удовенко. “The Ukrainian Sixtiers Dissident Movement Museum [ウクライナの60年代派美術館、反体制派美術の記念碑]” (英語). Музей історії міста Києва. 2021年3月18日閲覧。キエフ市歴史博物館。





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