グスタフ・ジークムント・カールノキ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 06:16 UTC 版)
経歴
1832年、当時オーストリア支配下にあったモラヴィア地方のレトヴィッツ(Lettowitz / 現チェコのレトヴィツェ)にハンガリー系貴族の家に生まれる。主として外交関係の官職を歴任したが、特に1881年11月20日、オーストリア政府の外相(二重帝国全体の外相を兼任)に任命され、アンドラーシ外相の外交を承けて以後14年間にわたりロシアとの協調関係を重視する外交をすすめた。しかしその一方で首相エドゥアルト・ターフェとの関係は良好でなく、彼を辞任させる企てに参加したこともある。
1895年5月2日外相を辞任し、その3年後の1898年、プレードリッツ(Prödlitz / 現ブロデク・ウ・プロスチェヨヴァ)で死去。
参考文献
- T・J・P・テイラー 『ハプスブルク帝国 1809〜1918 - オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史』〈倉田稔:訳〉 筑摩書房、1987年 ISBN 978-4480853707
- 大津留厚 『ハプスブルク帝国』〈世界史リブレット〉 山川出版社、1996年 ISBN 4634343002
- 南塚信吾(編) 『ドナウ・ヨーロッパ史』〈新版世界各国史〉 山川出版社、1999年 ISBN 4634414902
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脚注
- 1 グスタフ・ジークムント・カールノキとは
- 2 グスタフ・ジークムント・カールノキの概要
固有名詞の分類
ハンガリーの貴族 |
チェスネキー・ジュラ ニコラ・サルコジ グスタフ・ジークムント・カールノキ ボチュカイ・イシュトヴァーン アパフィ・ミハーイ2世 |
オーストリアの外交官 |
アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール リヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒ グスタフ・ジークムント・カールノキ アンドラーシ・ジュラ レオポルト・ベルヒトルト |
チェコの貴族 |
ボフスラフ・ハシシュテインスキー=ロプコヴィツ ヨーゼフ・ラデツキー グスタフ・ジークムント・カールノキ プラハのアダルベルト ベルタ・フォン・ズットナー |
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