インドの遺跡におけるペルシア語の碑文 廟

インドの遺跡におけるペルシア語の碑文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/05 15:33 UTC 版)

アクバル廟
アクバル廟
アクバル廟はムガル朝皇帝アクバルの墓で、ムガール建築の傑作といわれる。1605〜1613年に息子ジャーハンギールによって建てられた。アーグラの一部シカンドラーの119エーカーの敷地にあり、ペルシア語の碑文と詩が刻まれた最高の大理石の石でできている。

モスク

タージ・マハル
タージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンによって立案され、1656年に竣工した。この巨大なモスクの建設には5000人の労働力と6年以上の歳月を要した。また建設に際して当時の金額で100万ルピーの費用がかかった。シャー・ジャハーンはこの他にもデリー各所やアーグラアジュメールラホールに主要なモスクを建立している。
ジャーマー・マスジド
ジャーマー・マスジド
デリーのジャーマー・マスジド間取りはアーグラのジャーマー・マスジドと酷似していると言われている。また、シャー・ジャハーンの息子アウラングゼーブによって1673年にラホールに建設されたバードシャーヒー・マスジドとも深いつながりがある。[5]
シュリーナガルのモスク[6]

第3版(新版)

50年以上忘れられていたこの本の第3版は、モハンマド・アジャム博士によって発行された。 出版社の紹介によれば、この本は、ペルシア語とペルシア文学そして言語学の学生たちに特に強く待たれていた。新版には約120枚の画像と、5部構成の第7章が追加されている。[7][6] 新版は、『インドの世界遺産に登録されているペルシャ語の碑文』という別のタイトルで発行されている。これは、ここで説明されている石碑文の多くが、世界遺産および無形文化遺産として保存および登録されているためである。[8][9]

第3版にはタージ・マハルについての詳細な説明と写真が掲載されている。タージ・マハルは1632年着工、1653年竣工とされる[10]ムガル帝国の第5代君主シャー・ジャハーンが、謀反を起こした臣下ハーン・ジャハーン・ローディー討伐に出た際、付き従っていた妻ムムターズ・マハルが、遠征先のブルハーンプル産褥病のため1631年6月7日死亡した。その遺言のひとつに、後世に残る墓を所望していたことから建設されたものである[11]

第7章・第1部

この章の第一部には、クトゥブシャヒ王朝の時代にさかのぼる、ハイデラバードの遺跡にあるペルシア語の碑文の抜粋がある。 また、ゴルコンダ砦とアーンドラ・プラデーシュ州デカン高原からの碑文も含まれている。







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