Greek War of Independenceとは? わかりやすく解説

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ギリシャ独立戦争

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 01:23 UTC 版)

ギリシャ独立戦争(ギリシャどくりつせんそう、ギリシア語: Ελληνική Επανάσταση του 1821(1821年ギリシャ革命)、英語: Greek War of Independence)は、オスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争である。


注釈

  1. ^ この出典によると、1824年の方が80万ポンド(発行価格59%)、1825年の方が200万ポンド(発行価格56.5%)である。著者は「少なくともギリシア公債に関するものについては、払い込まれた額の僅かな部分しか目的地に、すなわちギリシア政府の手中に達しなかった。残りは発行業務を行っている金融業者の店によって主張された注文の形式で無駄に消費されたのである。そこで彼らは、ジブラルタルにも着くことのできなかったフリゲート艦や、使用しようと思うや否や爆発した火器を買わされたのであった」と分析している。
  2. ^ このギリシャ文庫は1805年以降、20年以上かけて出版されたが、ホメロスの時代からプトレマイオス朝までのギリシャ古典が集められていた。そして西欧で成功したギリシャ商人らがこれらを買い求めた[21]
  3. ^ イェニチェリの将校らのこと。当時、ベオグラード・パシャリクの実権を事実上、掌握していた[10]
  4. ^ この第一次露土戦争はロシアの勝利に終わり、キュチュク・カイナルジ条約が結ばれた[24]
  5. ^ 18世紀末、ギリシャでは「アガタンゲロスの予言」と「賢者レオの予言」という噂が広まっており、ともにロシアがギリシャを解放するという内容であった。「アガタンゲロスの予言」は正教徒司祭テオクリトス・ポリエイデスが編纂した汎正教主義の予言であり、一方で「賢者レオの予言」では1773年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを追放されるとされていた[9]
  6. ^ 1790年以降、ヴロラベラトチャメリアテッサリアを勢力下としてヤニナ公国として統治していた[33]
  7. ^ 1799年にナポレオンによって禁じられた民族舞踊の名称。フランス革命に参加した過激派がこの名称を名乗っており、ギリシャの共和主義者らはこれを真似て自称した[36]
  8. ^ このイオニア七島連邦国には後のギリシャ初代大統領イオアニス・カポディストリアスも評議会の行政長官として参加していた。カポディストリアスは憲法制定にも参加して外交、商業、教育の責任者として働き、さらにイオニア諸島のレフカダ島へ侵攻したアリー・パシャとの戦いでは軍事司令官として戦っている[38]
  9. ^ カポディストリアスはこのイオニア七島連邦国での経験から自らがギリシャ人である意識を強く持ち、ギリシャ人にこだわらずバルカン半島の諸民族をオスマン帝国支配下から解放することまで考えていたという[22]
  10. ^ 柴『バルカン史』によればイスタンブールでの蜂起を含むバルカン半島全体で蜂起を行い、『祖国(ミテーラ・パトリーザ)』の解放を目指していたとされている[53]
  11. ^ フィリキ・エテリアはその後もセルビアと接触を持ち、セルビアとの共闘を目指したが、ミロシュはオスマン帝国と折り合いをつける方針を採用していたため、協力することはなかった[54]
  12. ^ 当時、カポディストリアスがフィリキ・エテリアの会員であるという噂が一人歩きしていたがこれは事実ではなかったが[56]、その一方でフィロムソス・エテリアという組織を発足させており、このフィロムソス・エテリアと混同されることがあった[57]。ただし、後のフィリキ・エテリア指導者アレクサンドロス・イプシランディスによればカポディストリアスはフィリキ・エテリアに参加したとされているが、カポディストリアス本人はこれを否定している[58]
  13. ^ カポディストリアスによればフィリキ・エテリアの計画は愚かしいもので失敗は必然と考えており、そのためギリシャはセルビア公国のような自立的な立場を目指すべきと考えていた[59][57]。そしてギリシャ独立への動きに関する情報を収集し、それらをオデッサ、モルドバ、ワラキアのギリシャ人指導者層やマヴロコルダトスらなどに注意を喚起した[57]
  14. ^ 当初、ペロポネソス半島での蜂起や[63]、セルビア、ブルガリア、ワラキア、モルドバ、エーゲ海島嶼部、マニ、メッセニア、トラキア、イピロス、モレアそしてロシアで革命を展開するという方針であったが[61]、イプシランディス参加後、ロシアの支援を受けた上で、ワラキア、モルドバ両公国へ解放者として侵攻して陽動作戦を行い、ペロポネソス半島を中心とするギリシャ本土に反乱を起こさせて共同戦線を張ることによりオスマン帝国に対応できなくさせ、さらにロシア王室から皇帝を選んでギリシャ帝国を建設するというものに変更されたが[64][54]、これは1812年のブカレスト条約でワラキア、モルドバ両公国にオスマン帝国の駐留が認められておらず、さらに両公国にはギリシャ人が多数、住んでいたこと、ペロポネソス半島では準備が整っていなかったことが関係している[65]
  15. ^ セルビア人、ブルガリア人らは自らの民族運動を整えつつあり、大部分のセルビア人、ブルガリア人らはギリシャが覇権を握ることに反感を持っていたが[59]、モルドバ、ワラキア両公国の公の息子らがフィリキ・エテリアを信奉していたことから支援が受けられると判断されていた[54]。また、一部のブルガリアの都市、スリヴェンプロヴディフガブロヴォなどではエテリアを支持する勢力が存在していたため、ブルガリアでも蜂起を計画していたが、あまりにも勢力が小さかったため、蜂起には加わらなかった[66]
  16. ^ 柴によればイプシランディスはアリー・パシャの打倒を目指していたとしている[71]
  17. ^ なお、アリー・パシャは持久戦を取ってオスマン帝国がフィリキ・エテリアの鎮圧に軍を割くことを期待していたが、オスマン帝国はアリー・パシャの包囲を解くことはなかった。そのため、アリー・パシャは1822年1月に裏切りによって殺害、アリー・パシャの勢力は消滅し、戦闘は終了したが、1年半渡ってオスマン帝国を釘付けたことから、アリー・パシャはギリシャ独立の影の功労者とも言える[73]
  18. ^ この部隊は砲13門、小銃125丁、サーベル99本、弾丸12万3300発、火薬1万1772キログラムと必要物資を持ってきた[76]
  19. ^ この資金調達で5万5千ルーブル、千フロリンが集められた[76]
  20. ^ このフィリキ・エテリアとヴラディミレスクの蜂起には第1次セルビア蜂起の参加者であるハジ・プロダン、ラーデ・ヴチニッチ、ステファン・ジヴコヴィッチ・ニシャリア、ステファン・ジヴコヴィッチ・テレマックらやロシア軍の元ブルガリア人部隊に所属していたハジ・ハミル、カプタン・コイチョらが参加していた[54]
  21. ^ トゥードア・ヴラディミレスクはワラキアの民兵隊の隊長。1814年より反乱の準備にとりかかっており、フィリキ・エテリアとも密命を結んでいた[79]
  22. ^ ヘッシュによればカポディストリアスもしくはロシア政府が直接、間接を問わずにフィリキ・エテリアの蜂起に関わった証拠はないとしている[80]
  23. ^ 本文に記載したのはクロッグによるもの。矢田によればギリシャ人、アルバニア人、セルビア人、ブルガリア人、モンテネグロ人の義勇兵がイプシランディスの元に集まり、ブカレストを占領したとしている[79]
  24. ^ 阿部によればこの密使がたとえオブレノヴィチの元にたどり着いたとしても当時、セルビア内部で内紛があったことから協力することはなかっただろうとしている[78]
  25. ^ なお、フィリキ・エテリアの蜂起の影響でワラキア、モルドバの両公国を牛耳っていたギリシャ人であるファナリオティスらがオスマン帝国によって粛清され、両公国の君主にはルーマニア人貴族が任命されるようになった[84][85]
  26. ^ ペロポネソス半島で発生した反乱についてはフィリキ・エテリアの蜂起に関係があったかどうかは異論が存在する。クロッグによれば、エテリアの蜂起とペロポネソス半島での蜂起の関係はどの程度まであったのかどうかはっきりしていないとしており[88]、柴[89]、周藤、村田らも同じ意見である[87]。しかしウッドハウスによれば、ペロポネソス半島にアレクサンドロス・イプシランディスの弟、ディミトリオス・イプシランディスが軍事指揮官として派遣されていることや、エテリアにおける他の指導者的立場のギリシャ人らがギリシャ各地に送り込まれるなどしたため、協調行動であったとする[90]。また、スボロノスによれば、ディケオス・パパフレサスや結社の他の会員が躊躇する有力者を屈服させた上でペロポネソス半島やギリシャ本土、エーゲ海島嶼部で革命を宣言したとする[75]。木戸によれば半島の有力者たちは日和見的態度を取っており、フィリキ・エテリアとオスマン帝国を両天秤にかけていた。しかし、オスマン帝国政府が事態を掌握するためにペロポネソス半島の有力者を招集しようとしたため、人質にされることを恐れた有力者たちは僧院に集まり、オスマン帝国への戦いを選んだとしている[91]。百瀬によればエテリアの組織網がペロポネソス半島に形成されており、エテリアが蜂起したという情報がペロポネソス半島での蜂起を導いたとしている[92]。一方でジョルジェヴィチ、フィッシャー・ガラティによればイプシランディスとフィリキ・エテリアが出した檄文を手に入れたギリシャ各地の教区長は1821年1月末にペロポネソス半島のヴォスティツァに集合、モルドバ・ワラキア両公国、セルビア、ロシアのモルドバ進攻が開始されたらそれに呼応して蜂起する計画を採用したとしている[86]
  27. ^ ただし、3月25日にギリシャ独立戦争が勃発したわけではなく、それ以前からイドラ、プサラ、スペッツァ、などで蜂起が始まっており、早い段階で有利な情勢になっていた[74]
  28. ^ この宣言は「カラマタ宣言」と呼ばれており、モレア蜂起を世界最初に宣言したものとなった。なお、この宣言はフィリキ・エテリアの文書ではなく、ペトロス・マヴロミハリスの署名が成されていた[95]
  29. ^ ロシア系ギリシャ人、一説によればビザンツ帝国コムネヌス朝の末裔とされる[98]
  30. ^ 1822年2月までオスマン帝国はアリー・パシャの殲滅を最大目標としていた[100]
  31. ^ ただし、バイロンは1824年1月にメソロンギに到着はしたがすぐに病死したため、戦いには参加していない[87]
  32. ^ 皮肉なことにグリゴリオス5世はアレクサンドロス・イプシランディス、ミハイル・スツォス、モルダヴィアのギリシャ反乱軍をオスマン帝国皇帝や聖なる神の意思に背くものとして幾度も非難する回勅を発していた[105]
  33. ^ 政府の中心を成していたのはペロポネソス半島のコジャバシ(土豪)であった[100]
  34. ^ 周藤・村田によれば1822年1月[112]
  35. ^ 憲法の起草にはネグリスとマヴロコルダトスらが携わった[100]
  36. ^ この時、大統領にペトロビー(Petrobey)が選出されたが数カ月で解任された[121]
  37. ^ 後にシリアが割譲されるが、これはペロポネソス半島での戦いやナヴァリノの開戦でうけた壊滅的打撃の代償としてムハンマド・アリーが要求したことによる。そしてそれまで良好であったマフムト2世とムハンマド・アリーの関係はこれ以降、悪化する[125]
  38. ^ メッテルニヒによればギリシャでの出来事は暴動でヨーロッパの諸列強を分断するもので、ロシア・オーストリア間の間に楔を打ち込むものだとしている[132]
  39. ^ この時、親フランス派、親ロシア派も動きを見せたが、これは実を結ばなかった[140]
  40. ^ イギリスが単独で介入するとイギリス対オスマン帝国の図式が出来上がり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込む可能性があった。そしてこの戦争が発生した場合、ギリシャが独立する利益を失うことをカニングは予想していた[140]
  41. ^ ただし、藤井によればアレクサンドル1世はオーストリアとの協議の結果、1822年8月1日にメッテルニヒとの協力は不可能であると宣言したとある[136]
  42. ^ ロシアはこの時、バルカン半島の正当な統治者はあくまでもオスマン帝国であると考えていたことから完全独立は否定しており、オスマン帝国宗主権内での自治国化を与えることを考えていた[142]
  43. ^ これはギリシャ暫定政府大統領マヴロコルダトスがストラッドフォード・カニングと会談して、非公式に受けれいたものである[146]
  44. ^ ヨーロッパの王家のいずれにも血統が繋がらないサグセン=コーブルク家もしくはザクセン公をギリシャ国王とすることを計画していた[136]
  45. ^ さほど力は強くなかった[136]
  46. ^ オルレアン家から国王を迎えてイオアニス・カポディストリアスを指導者とすることを計画していた[136]
  47. ^ これは宣戦布告をせずに戦いに至ったためであり、オーストリアのメッテルニヒも怒りを示している[145]
  48. ^ 周藤、村田によれば1827年3月[149]
  49. ^ 当時、休職中ではあったがロシア外務次官であったカポディストリアスが選ばれたのはカポディストリアスがウィーン会議に参加したように経験豊富な外交官であり、また、イギリス、フランス、ロシアと対等に交渉できる人物として選出された[149]
  50. ^ カポディストリアスによればギリシャの独立はあくまでも列強国の妥協による「棚からぼたもち」的なものであり、成熟したギリシャ人らが自ら進んで得たものではないとしていた。そのため、ギリシャが本当の独立を得るには自ら強力な指導力を発揮してギリシャ人の教育を行わなければならないと考えていた[151]
  51. ^ カポディストリアスの意思背景には各種異論が存在する。スロボノスによれば、ロシア党のコロコトロニスの協力を得た上でギリシャをロシア皇帝の意図に沿わせることを意図していたとしている[153]。しかし、周藤・村田によればイギリス、フランスらは当初、カポディストリアスに対してロシアの手先というイメージを持っていたが、後にこのイメージは払拭されたとしている[149]。また、ウッドハウスによれば、カポディストリアスはロシアの代理人としてではなく、一人のギリシャ人として考え、行動したとしている[155]
  52. ^ モルドバ・ワラキア両公国とセルビアにおけるロシアの特権についての履行が規定されていた[158][139]
  53. ^ カポディストリアスは大司教を「キリスト教徒のトルコ人」、軍指導者を「追い剥ぎ」、知識階級を「たわけ者」、ファナリオティスを「悪魔の子供」とこき下ろしていた[165]
  54. ^ スロボノスや桜井によれば、カポディストリアスはギリシャ人国家の設立に真剣に取り組んでいたが、ロシア寄りの政策をとっているとしてイギリス、フランスが不信感を抱いていたため、反カポディストリアス派と手を組んで支援したとしている[168][166]
  55. ^ この決定はあくまでもイギリス、フランス、ロシアの間で成されたもので、バイエルン王国を勢力圏とするオーストリアは完全に蚊帳の外に置かれた[145]
  56. ^ たとえば1791年に出版されたフィリピディスとコンスタンダスによる著作『新地理』によるとハプスブルク帝国内にはオスマン帝国出身のギリシャ人が約40万人居たとされている。しかし、これはバルカン半島の正教徒商人全てをギリシャ人と見做した可能性が指摘されている[176]

脚注

  1. ^ A.アンドレァデス 『イングランド銀行史』 日本評論社 1971年 p.293.[# 1]
  2. ^ 柴(1998)、pp.163-166
  3. ^ カステラン (1994)、pp.11-12
  4. ^ カステラン (1994)、p.12
  5. ^ a b 桜井(2005)、p.269
  6. ^ a b c 百瀬他 (2001)、p.52
  7. ^ 百瀬他 (2001)、p.44
  8. ^ 木戸(1977)、p.79
  9. ^ a b c 周藤、村田(2000)、p.230
  10. ^ a b 百瀬他 (2001)、p.50
  11. ^ 桜井(2005)、pp.269-270
  12. ^ 桜井(2005)、p.270
  13. ^ 木戸(1977)、p.57
  14. ^ 木戸(1977)、pp.57-58
  15. ^ a b 木戸(1977)、p.58
  16. ^ 木戸(1977)、p.59
  17. ^ 桜井(2005)、p.272
  18. ^ 桜井(2005)、p.273
  19. ^ a b c 桜井(2005)、pp.273-274
  20. ^ 周藤、村田(2000)、pp.228-229
  21. ^ 桜井(2005)、p.274
  22. ^ a b c 周藤、村田(2000)、p.228
  23. ^ a b スボロノス(1988)、p.41
  24. ^ a b 木戸(1977)、p.54
  25. ^ 柴(1996)、p.39
  26. ^ 柴(2001)、pp.60-61
  27. ^ 百瀬他 (2001)、pp.50-51
  28. ^ 柴(1996)、p.40
  29. ^ 柴(2001)、p.61
  30. ^ クロッグ(2004)、p.29
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  35. ^ スボロノス(1988)、pp.43-44
  36. ^ a b スボロノス(1988)、p.146
  37. ^ スボロノス(1988)、pp.44-45
  38. ^ a b 周藤、村田(2000)、p.227
  39. ^ クロッグ(2004)、p.30
  40. ^ 木戸(1977)、pp.56-57
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「Greek War of Independence」の例文・使い方・用例・文例

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