FAの設立とサッカー競技規則の誕生
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「フットボール・アソシエーション」の記事における「FAの設立とサッカー競技規則の誕生」の解説
1863年10月26日にロンドンの居酒屋フリーメイソンズ・タバーンでロンドンにある12(11とする資料もある)のクラブおよびパブリックスクールの代表者の間で、「統一ルールの作成と、試合における同ルールの運用に携わる協会の設立」を目的とした会議が開かれた。FAはこの日を以て公式な設立日としている。 ロンドンでの会議に参加したクラブは、バーンズ、ブラックヒース(後に脱退)、ブラックヒース・スクール、クルセイダーズ、クリスタル・パレス(英語版)、フォレスト、ケンジントン・スクール、ノー・ネイムズ、パーシバル・ハウス、サーピトン、シヴィル・サーヴィスFCなどであった。このうち、2015年現在までサッカークラブとして存続しているのはシヴィル・サーヴィスFCのみであり、その他のチームはラグビーユニオンのクラブとして存続しているものを除き、全て解散している。 同年12月8日までに6回のミーティングを行い、統一ルールの作成を行った。この統一ルール作成の過程で重要視されたのは、初会合の直前に新訂版が新聞上で公表されていたケンブリッジ・ルール(1848年に成立)であったため、同ルールの影響から、ボールを持って走ること、ボールを運んでいる相手にハッキング(すねをけること)、トリッピング(引っ掛けてつまずかせること)およびホールディング(おさえること)を行うことが禁止された。この決定はブラックヒースFCの反発を招き、同クラブはFAを脱退した。同クラブの脱退はラグビー・フットボールのルールの法典化と競技団体の設立の機運を高め、後の1871年にラグビー・フットボール・ユニオンの結成に繋がった。 12月8日の会議を以て、全14条から成る世界初のサッカー統一ルールが誕生した。現在[いつ?]のFAの見解およびそれを支持する意見においては、このときを以て近代サッカーが本格的に誕生したとされている。このサッカー統一ルールでの世界初の試合は1863年12月19日に行われたリッチモンド対バーンズ戦であり、結果は0-0の引き分けだった。 FAが制定した1863年版のサッカー競技規則はその後幾度か改訂を経ながら発展していき、後にFIFAがこの規則を採用したことで世界各地のサッカーがこのサッカー競技規則に則って行われるようになっていった。パブリックスクールにおけるフットボールのルールから派生し発展したサッカー競技規則がサッカーの原型をもたらした事実から、後に人々はイングランドを指して「サッカーの母国」と呼ぶようになったとされる。
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