4番艦以降の建造計画
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「アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦」の記事における「4番艦以降の建造計画」の解説
1895年3月に採用された1902年までの造艦計画によれば、更に4隻の同型艦を建造する計画があった。1899年4月、この計画は1898年の「極東艦隊向けの戦艦建造計画」と統合され、アドミラル・ウシャコフ級を基に極東艦隊向けの戦艦が新たに設計されることになった。 アドミラル・ウシャコフ級改良型の計画は1897年10月に海軍大臣パーヴェル・ティルトフ(ロシア語版)により技術委員会に命じられた。特に堪航能力を向上させるため、船首塔の機能を船首内部に移し、装甲甲板と舷側外板に傾斜を追加することが提案された。煙管ボイラーはベルビル式水管ボイラーに置き換える計画であったが、研究に携わったアポロ・クロトコフとニコライ・クテイニコフ(ロシア語版)は石炭の積載量と最大速力16ノットは維持すべきと考えていた。 1899年4月、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は203mm速射砲を装備した戦艦、海防戦艦、装甲巡洋艦の概略の作成を命じた。完成したそれに基づいてドミトリー・スクヴォーツォフ(ロシア語版)による技術検討が行われた。戦艦と装甲巡洋艦の案は技術委員会によって却下されたが、海防戦艦の提案は採用され、当時防護巡洋艦「ヂアーナ」の建造が行われていた新アドミラルティ造船所のドックで建造されることが決定した。1900年1月7日、ティルトフは新アドミラルティ造船所に新型戦艦を建造するためのドックの増築を命じ、3月には造船総局から工事のための10万ルーブルの予算が下りた。 この戦艦はロシア装甲艦隊の生みの親のひとりである、グリゴリー・ブタコフ(英語版)に因んで「アドミラル・ブタコフ」と命名される予定であった。しかし1900年9月14日、ティルトフによって作業の延期が指示され、後に計画自体が取り消された。建造のための資金は別の建艦計画に流用された。
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