2度目の野党期(1783年 – 1793年)
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「ウェルボア・エリス (初代メンディップ男爵)」の記事における「2度目の野党期(1783年 – 1793年)」の解説
国務大臣を退任した後、エリスは二度と官職に就任せず、代わりに叙爵を目標とした。そのため、エリスの議会活動は続き、1783年2月に第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティの予備講和条約に反対票を投じる、1783年11月にチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案に賛成票を投じるなど、概ねノース派として行動した。また、1783年5月には小ピットの選挙改革動議への反対演説をした。同年4月にフォックス=ノース連立内閣が成立すると、ジョージ3世に手紙を書き、「42年間議員を務めたが、この長期間において他人と連合した野党活動を一度もしなかった」(I have been in Parliament forty-two years, and in this long course of service [...] I never was a part of any concerted system of Opposition.)とアピールした。アイルランド総督の第2代ノーティントン伯爵ロバート・ヘンリーもエリスの叙爵を支持、ジョージ3世自身も前向きだったが、結局エリスの叙爵申請を拒否した。ホイッグ党のウィリアム・ウィンダム(英語版)はエリスの申請がしっぱいしたので、誰が申請しても通る可能性が低いと評した。 叙爵申請が失敗した後、エリスは野党活動に戻り、1784年3月の演説で小ピットを批判、同年から1790年まで野党の一員として頻繁に演説、投票した。1789年1月(英語版)と1789年6月(英語版)の庶民院議長(英語版)選挙では野党候補の第4代準男爵サー・ギルバート・エリオットの推薦者を務めた。 1790年6月の総選挙で議席を得られなかったが、1791年4月に第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの推薦を受けて、ピーターズフィールドの補欠選挙で当選した。この議席はエリスが購入したものとされる。1791年以降も野党の一員として投票したが、演説することはなくなり、ノース卿の死後はポートランド公爵派の一員になった。 フランス革命が勃発すると革命に反対の立場をとり、チャールズ・ジェームズ・フォックスと距離を置いたほか、野党活動も止めた。1794年初にはポートランド公爵派のバーリントン・ハウスでの会合に参加するようになり、同年夏にポートランド公爵が入閣すると、公爵はエリスの叙爵申請を通した。1794年8月13日、エリスはグレートブリテン貴族であるサマセットにおけるメンディップのメンディップ男爵に叙された。この爵位には特別残余権(special remainder)が定められており、初代男爵の男系男子が断絶した場合、初代男爵の姉アン(Anne、1707年 – 1765年)の長男ジェームズ(1734年3月25日 – 1788年12月29日)、次男ウェルボア(1735年 – 1805年10月30日)、三男チャールズ(英語版)(1736年12月22日 – 1809年7月14日)およびそれぞれの男系男子が順番に継承すると定められた。アンには4人目の息子ヘンリー(1798年5月14日没)がいたが、ヘンリーは特別残余権の規定に含まれなかった。
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