2つの落日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:39 UTC 版)
「リチャード・サザランド」の記事における「2つの落日」の解説
1945年8月15日に日本が降伏して戦争は終わり、9月2日に戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書調印式が行われた。日本側全権重光葵外務大臣はどこに署名するか迷っている様子であり、それを見ていたハルゼーがののしっていた。サザランドはマッカーサーに署名場所を教えてやるよう言われ、サザランドの指摘を受けた重光は署名することができた。降伏文書への日本と連合国各代表の署名が終わり、日本側全権団が去ろうとした間際、日本側がカナダ代表ローレンス・コスグレーヴ(英語版)大佐が、本来はフランス代表フィリップ・ルクレール大将が署名すべき欄に間違って署名し、以降も一段ずれて署名していることに気づき、訂正を要求した。マッカーサーはサザランドに「国名欄を変えればいい」とアドバイスし、サザランドが修正を行ってこの文書は日本側に渡された。 日本での占領行政がスタートするにともない連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の組織整備が行われ、サザランドはここでも参謀長を務めた。しかし、日本が降伏して落日を迎えたのと同様に、サザランドもまた黄昏時を迎えようとしていた。前述のクラークとの不倫問題が一応は解決したとはいえマッカーサーとの間がガタガタになったことに加え、高血圧と心臓病で健康状態も良くなかった。さらに、自らがスカウトし、頭角を現し始めたコートニー・ホイットニー准将に、皮肉なことであるが自分の居場所を奪われつつあった。サザランドは12月10日に日本を離れて帰国した。 帰国後、サザランドは退役したものの、病身のため公的な仕事に就くことはなく引退生活に入った。また、妻ジョゼフィンにクラークとの一件を詫び和解し、クラークとの手紙は娘のナタリーが始末した。サザランドは1957年12月30日にジョゼフィンに先立たれ、1962年にヴァージニア・ショウ・ルートと再婚したが、1966年6月25日にワシントンD.C.のウォルター・リード陸軍医療センター(英語版)で亡くなった。72歳没。6月29日にバージニア州メイヤー駐屯地(英語版)内の教会で葬儀が行われ、アーリントン国立墓地に家族とともに葬られている。
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