1992〜2001年
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「シャルリー・エブド」の記事における「1992〜2001年」の解説
1992年、湾岸戦争に反対するために創刊された風刺新聞『ラ・グロス・ベルタ(フランス語版)』(「グロス・ベルタ」は「ディッケ・ベルタ」のこと)のメンバーであった編集長フィリップ・ヴァル(フランス語版)とカビュは、編集長と意見が合わなくなり同紙を離れ、新たに新聞を立ち上げることにした。ウォランスキの提案により再び『シャルリー・エブド』の名前を使うことにした。新『シャルリー・エブド』にはフランソワ・カヴァナ、ジェベ、ウォランスキ、カビュ、シネ (モーリス・シネ)(フランス語版)、ヴィレムらの旧『シャルリー・エブド』のメンバーに加え、新たにシャルブ、ベルナール・マリス、ルノー・セシャン、リュズ、ティニウス、フィリップ・オノレ、リス (ローラン・スーリソー)、プランチュ、オリヴィエ・シラン(フランス語版)らが参加した。その後、ジュル(フランス語版)、リヤド・サトゥフ(フランス語版)、そして短期間だがジョアン・スファールも参加することになった。ショロンは参加を拒否したばかりか、『シャルリー・エブド』というタイトルの著作権は自分にあるとして訴えを起こしたが、この訴えは却下された。 第1号の表紙には「URBA (社会党の汚職事件)、Chômage (失業)、Hémophiles (薬害エイズ事件・薬害肝炎)、Superphénix (スーパーフェニックス:故障が相次いで稼働停止、この後廃炉になった高速増殖炉)」と当時の社会問題が挙げられ、「そして戻ってきた『シャルリー・エブド』」と叫んで頭を抱えるフランソワ・ミッテラン大統領が描かれている。新『シャルリー・エブド』の編集方針は旧『シャルリー・エブド』の精神を受け継ぐものであり、編集長のフィリップ・ヴァルはこれを「ライシテ、理性、共和国の理念、民主主義および平和のために闘う信念の新聞」と定義した。標的は軍国主義、極右、キリスト教原理主義、コルシカ島やバスクのナショナリズムなどであった。ただし、内部に激しい意見対立があり、リュズは「シャルリーはばか(反理性、愚民政策……)と闘うための手段でなければならない。この点を除けば、すべてについて意見が分かれている」と認めている。 こうした対立はやがてますます激化し、特に編集長フィリップ・ヴァルのやり方に反対するフィリップ・コルキュフ(フランス語版)、オリヴィエ・シラン(フランス語版)、ルフレッド・トゥーロン(フランス語版)、フランソワ・カメ(フランス語版)、ミシェル・ブージュ(フランス語版)、モナ・ショレ(フランス語版)らが『シャルリー・エブド』を離れることになった(解雇を含む)。これは主にフィリップ・ヴァル(フランス語版)と急進左派との対立であった。モナ・ショレ(フランス語版)は、パレスチナ人を「非文明的」と呼ぶフィリップ・ヴァルの記事に抗議した後、解雇された。
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