ジェベ
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ジェベ(モンゴル語:ᠵᠡᠪᠡ Зэв Jebe、? - 1224年[1]もしくは1225年[2][3])は、モンゴル帝国の初代皇帝であるチンギス・カンに仕えた千人隊長(ミンガン)の一人。ベスト氏族の出身で、はじめタイチウト氏に属する隷属民だった[2]。『元朝秘史』では者別(zhĕbié)、『元史』では哲別(zhébié)などと漢語表記され、『集史』などのペルシア語資料ではجبه نويان (Jebe Nūyān)と表記される。書籍によってはジュベとも表記される。
- ^ a b 『新元史』巻123、列伝第20
- ^ a b 村上「ジェベ」『アジア歴史事典』4巻、118頁
- ^ 小松久男編『中央ユーラシア史』(新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)、索引7頁
- ^ 『元朝秘史』下巻(小澤重男訳, 岩波文庫, 岩波書店, 1997年8月)、62頁
- ^ 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、896頁
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年12月)、253頁
- ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、150頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、149-150頁
- ^ 『元朝秘史』下巻(小澤重男訳, 岩波文庫, 岩波書店, 1997年8月)、103頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、117頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、149頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、148-149頁
- ^ 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』(講談社現代新書, 講談社, 1996年5月)、48頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、208頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、281頁
- ^ 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史09, 講談社, 2008年2月)、152頁
- ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、284頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、285頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、287-290頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、297頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、298-299頁
- ^ 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』(講談社現代新書, 講談社, 1996年5月)、107-108頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、299頁
ジェベ
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詳細は「ジェベ」を参照 ベスト部の人で、はじめタイチウト部に属していたが、タイチウトがチンギス・カンに滅ぼされた後チンギス・カンに投降して仕えた。元々はジルゴアダイという名前であったという。「鏃(やじり)」を意味するジェベの名は、タイチウトとモンゴルの戦いで彼がチンギス・カンの乗馬を射たことからチンギス・カンに与えられたと伝承される。 チンギス・カンの遠征において先鋒を務めて戦功を重ね、1218年には西遼を乗っ取ったナイマン部のクチュルクを討つ功績をあげた。ホラズム遠征ではモンゴルの侵攻を受けたホラズム・シャー・アラーウッディーン・ムハンマドを追撃してイランに入り、そこからグルジアに出てカフカスを抜け、ルーシ(ロシア)まで達し、ルーシ諸侯の連合軍を破ったが、キプチャク草原を通ってモンゴルに戻る途上で病死した。漢文では、「者別」とも表記される。
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