1964年から1982年まで:プレーオフから遠ざかる
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「ニューヨーク・ジャイアンツ」の記事における「1964年から1982年まで:プレーオフから遠ざかる」の解説
その後1964年から1978年までチームはわずか2回しか勝ち越せずプレーオフ進出からは遠ざかった。1964年には2勝10敗2分、1965年に7勝7敗と持ち直したが1966年には500失点以上を与え1勝12敗1分に終わった。1969年のプレシーズン、チームはニューヨーク・ジェッツとコネチカット州ニューヘイブンのイェールボウルで対戦、70,874人を集めた試合で14-37と敗れた。ウェリントン・マーラオーナーはアリー・シャーマンヘッドコーチをシーズン前に解任、元ジャイアンツのフルバック、アレックス・ウェブスターが新ヘッドコーチとなった。1967年にチームはミネソタ・バイキングスのQBフラン・ターケントンを獲得したが1967年の7勝7敗、1970年の9勝5敗を除き満足できるシーズンを送れず、1971年に4勝10敗に終わった後、ターケントンはバイキングスにトレードされた。ターケントンはその後バイキングスを3度スーパーボウルに導いた。1973年からの6シーズンでチームはわずか23勝しかできなかった。1974年には1勝5敗となったところでダラス・カウボーイズでロジャー・ストーバックとの先発争いに敗れ控えQBとなっていたクレイグ・モートンを獲得したが残り8試合でチームは1勝しかできず2勝12敗に終わりトレードで手放した全体2番目の指名権でカウボーイズは後にプロフットボール殿堂入りするランディ・ホワイトを指名した。モートンはその後2年間先発QBとしてプレーしたがチームは1975年には5勝9敗、1976年には3勝11敗に留まった。 1976年にチームはロン・ジョンソンの代わりに後に殿堂入りするラリー・ゾンカを獲得したがジャイアンツに在籍した3シーズン、彼は故障もあり満足に働くことはできなかった。1977年にはロースターに新人QB3人が並ぶ事態となった。この時代ヤンキー・スタジアムの改修もありイェールボウルやシェイ・スタジアムで戦った。1976年にジャイアンツ・スタジアムが完成し本拠地を移した。1978年にはメドウランズの奇跡と呼ばれるようになったフィラデルフィア・イーグルス相手にニーダウンすれば確実に勝てた試合をランニングプレーを選択した結果、ボールをファンブルし、ハーマン・エドワーズにリターンタッチダウンをあげられ試合を落としている。1965年にジャック・マーラが亡くなって以来、ウェリントン・マーラとティム・マーラの間がうまくいっておらずコミッショナーのピート・ロゼールに仲介されるほどであった。 1977年にチームはモートンをデンバー・ブロンコスにトレードしスティーブ・ラムジーと翌年のドラフト5巡を手に入れたがいずれもジャイアンツでプレーすることはなく終わり逆にモートンはブロンコスを第12回スーパーボウル進出に導いた。1981年から1983年の間、ディフェンスが驚異的で、ブラッド・バンペルト、ハリー・カーソン、ローレンス・テイラー、ブライアン・ケレーでラインバッカー(LB)のグループ「クランチ・バンチ」を結成していた。
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