1920年旱魃と凶作の無視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:53 UTC 版)
「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事における「1920年旱魃と凶作の無視」の解説
本記事のテーマであるロシア大飢饉は、1921年夏の旱魃によって発生したとされるが、1920年からすでに、旱魃やバッタの害(蝗害)のために、各地が凶作に見舞われていた。地方チェーカーと軍事情報部から、多数の報告が中央機関に寄せられている。さらに、ヴォルガ流域では1917年からすでに不作であった。食糧人民委員会によると、サラトフ県の収穫は平年では1億4000万プードだが、3分の1の5086万7000プードの収穫しかなかった。サマーラ県は平年の1億5000万プードにくらべ、4129万9000プードでやはり収穫量は1/3である。 1920年7月にはカルーガ県コゼリスク郡から、餓死を含む飢饉が報告された。9月21日の人民委員会議(閣僚会議)では、リャザン、カルーガ、トゥーラ、ブリャンスク、オリョール県を凶作県に認定し、のちにツァリーツィン県も加わった。凶作県に認定された地域以外でも、旱魃と不作が始まっていた。が、中央機関は無視した。アントーノフ蜂起の中心となったタンボフ県では、5月から秋蒔きの刈り入れまで、県内では旱魃が続き、時折、ほんのすこし雨が降っただけだという。ヴォルガ川流域のサマーラ県では1920年夏から旱魃の兆しが現れた。他にも1920年の旱魃で凶作が起きた県としては、スモレンスク県、タンボフ、ウラジミル、モスクワ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、ペルミなどがある。シベリアのトムスク県ノヴォニコラエフスクの郷では旱魃とバッタの害で1920年の収穫は全滅に近かった。
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