龍野赤松家(大名赤松家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 06:20 UTC 版)
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされた。 同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広(赤松広秀)は、西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払った事を理由として、徳川家康から自害を命じられた。この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い。西軍から東軍に寝返った大名でしかし死罪となったのは斎村政広の事例だけである。斎村政広の子孫は但馬国で代々宵田村の村長をし、藩主より70石を与えられていたと伝わる。 政広の弟の赤松祐高は兄の死後、全国を流浪した。のちに大坂の陣に際して、浪人衆として大坂城に入城。豊臣秀頼に仕えたが、大坂の陣にて豊臣氏は滅びた。祐高一党は播磨に逃れて、同じく大坂方であった播磨島津氏の島津義弘親子らと共に大覚寺に立て籠もるも、池田利隆の軍に攻められて切腹した。嫡男は半田山で帰農し、郷長となった。これにより大名としての赤松氏は滅亡した。
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