頌子内親王
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頌子内親王(しょうし(のぶこ)ないしんのう、天養2年3月13日[1](1145年4月6日) - 承元2年9月18日[2](1208年10月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の皇女、賀茂斎院である。鳥羽天皇の第7皇女。母は美福門院の女房・春日局(徳大寺実能の娘[* 1])。崇徳院、後白河院、近衛天皇は異母兄にあたる。春日姫宮、五辻斎院とも呼ばれた。
注釈
- ^ 養女とも。
- ^ 当初勧進にあたった大義房賢宗が没したため、西行が引き継いだとも言う。
- ^ 後三条天皇の第3皇子輔仁親王 → 娘 守子女王(伏見斎宮) → ・・・ → 春日局 → 娘 頌子 と相続された。『和歌山県地名大辞典』(角川書店、1985年)「みなべ 南部」を参照。
- ^ 前斎院庁下 南部御庄政所
可早寄進於高野山蓮華乗院当御庄内山内村田拾町事
右件御堂為故鳥羽院御菩提所令建立御也
仍以件村所当地利為被宛彼仏性燈油人供等令寄進者也
(以下略)(『前斎院庁下文』 承安五年六月二四日) - ^ 辻邦生『西行花伝』では、病弱な頌子の健康を願う母春日局の意志で寄進されたとする。
- ^ 母春日局から高野山に宛てた1177年(安元3年)6月22日付書状(高野山文書)で、「大本房の聖」(西行)が定めた通りに実行せよと要求している。
- ^ 『前斎院庁寄進状』(建久五年四月)。実際の寄進は頌子の没後に執行。
出典
- 1 頌子内親王とは
- 2 頌子内親王の概要
固有名詞の分類
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