革命への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 08:13 UTC 版)
「テロワーニュ・ド・メリクール」の記事における「革命への参加」の解説
1789年、テロワーニュはフランス革命前夜のパリに戻っていた。そして7月14日のバスティーユ襲撃をパレ・ロワイヤルの群衆の中で迎える。既にこの時彼女が馬上で男装に身を包みバスティーユ牢獄に向かう群集の先頭に立っていたとする叙述もあるが、テロワーニュ自身の『手記』にそのような記述はなく、後世の創作である。 革命の開始に感銘を受けた彼女は、乗馬服に大きな羽根飾りのついた幅広帽子といった男装でパリの街に出歩くようになり、国民議会の傍聴席に足繁く通った。男装の彼女の姿について、歴史家ジュール・ミシュレは、「われわれの父たちの心を奪い、一人の女の中に自由のイメージそのものを想起させた英雄的な美しさ」と評価している。学校教育を受けたことのない彼女だったが、次第に革命の思想を理解し、また傍聴席に熱心に通う男装の女性の姿は議員の目に留まり、革命家達との面識も得た。自宅には自然とサロンが形成され、彼女は娼婦稼業で得た資産を元に革命家達を援助した。彼女のサロンには、ダントン、デムーラン、ミラボー、シエイエスなども出入りした。 10月5日のヴェルサイユ行進の際も、まだ彼女はさしたる活動をしていない。この事件の首謀者がテロワーニュであり、マリー・アントワネットの居室まで侵入したという伝説があるが、女性を中心とする事件であったために、パリで著名な女性であった彼女が結び付けられたものである。 彼女が革命家として本格的な活動を始めるのは1790年のことで、バスティーユ牢獄の跡地への国会庁舎建設を訴える演説などを行っている。だが、彼女の影響力が増大するにつれ、中傷も激しくなった。特に王党派ジャーナリストは彼女への攻撃に熱心で、娼婦時代の経歴を暴き立てたり、彼女は革命指導者達の情婦であるとするゴシップ記事を書きたてたりした。
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