青鞜社
青鞜社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:18 UTC 版)
10月頃から、野枝は平塚らいてうらの女性文学集団青鞜社に通い始め、社内外から集まった当時の錚々たる「新しい女」達、与謝野晶子・長谷川時雨・国木田治子・小金井喜美子・岡本かの子・尾竹紅吉・神近市子らと親交を深めて強い刺激を受けた。機関誌『青鞜』に詩「東の渚」などの作品を次々発表、頭角を現した。平塚らいてうが「原始、女性は実に太陽であつた」と謳ったのと対照的に野枝は、「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳っている。この時期、アメリカのアナキストであるエマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』の翻訳をし、足尾鉱毒事件に関心を深めた。 1915年、それまで度々発売禁止の処分を受けるなど経営難に陥っていた雑誌『青鞜』の編集・発行を平塚らいてうから受け継ぐと、「無主義、無規則、無方針」をモットーにエリート女性だけでなく一般女性にも誌面を解放。情熱的に創作・評論・編集に活躍し、『青鞜』を文芸雑誌から女性評論誌、あるいは女性論争誌と呼ぶべきものに変えていった。野枝はこの間、長男の一(まこと)、次男の流二(りゅうじ)を出産。また中流階級婦人による廓清会の廃娼運動を、娼婦の境遇に対して理解なきまま「醜業婦」の名を浴びせる偽善として厳しく批判した。
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