鳥取県道31号鳥取国府岩美線
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鳥取県道31号鳥取国府岩美線(とっとりけんどう31ごう とっとりこくふいわみせん)は、鳥取県鳥取市と岩美郡岩美町を結ぶ主要地方道(鳥取県道)である[1]。
注釈
- ^ これに対し、古山陰道のうち榎峠や駟馳山峠を経由して海側を通って岩井郡へ向かうルートは「岩井郡榎峠通り[7]」や「但馬往来[8]」という呼称がある。
- ^ 換算に用いる値によって若干の誤差が出る。例を挙げると、鳥取県歴史の道調査報告書第9集 歴史の道調査報告書『法美往来 鹿野往来』では、擬宝珠橋・立川大橋間の「20町30間」を1尺=0.303mとして換算し、2km234mとしている[10]。
- ^ 鳥取県歴史の道調査報告書第9集 歴史の道調査報告書『法美往来 鹿野往来』によれば、「雨滝街道」という呼称が江戸時代からあったかのような記述をしている文献が散見されるが、実際には江戸期の文献ではそのような表現はみられず、江戸時代には「雨滝道」としか呼ばれていなかった。つまり、「雨滝街道」の呼称は明治以降のものである[7]
出典
- ^ 『鳥取県大百科事典』p678-679
- ^ a b c 『古代中世因伯の交通』p11-44
- ^ 『岩美町誌』p116-121
- ^ 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p409-410「十王峠」「十王川」
- ^ a b c 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p46-58「因幡国」
- ^ a b c d e f g h i j k 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p108「法美往来」
- ^ a b c d e 鳥取県歴史の道調査報告書第9集 歴史の道調査報告書『法美往来 鹿野往来』p1-15「法美往来の概観」
- ^ 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p41「但馬往来」
- ^ a b c 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p124「雨滝村」
- ^ a b c d e f g h 鳥取県歴史の道調査報告書第9集 歴史の道調査報告書『法美往来 鹿野往来』p16-36「道の確定と現状」
- ^ a b c 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p253「蒲生峠」
- ^ a b c 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p93-94「銀山村」「洗井村」「鳥越村」
- ^ “平成13年3月31日付鳥取県公報号外第47号” (pdf). 鳥取県 (2001年3月31日). 2016年3月27日閲覧。
- ^ 2001年(平成13年)3月31日付鳥取県告示第236号により鳥取県道291号鳥取国府線とのルート入れ替えを実施。
- ^ 国土交通省 鳥取河川国道事務所 殿ダム管理支所概要 (PDF) 2015年10月29日閲覧。
- ^ 国土交通省・殿ダム建設事業 (PDF) 2015年10月29日閲覧。
- ^ s:道路法第五十六条の規定に基づく主要な都道府県道及び市道 - 平成五年五月十一日建設省告示第千二百七十号、建設省
- 1 鳥取県道31号鳥取国府岩美線とは
- 2 鳥取県道31号鳥取国府岩美線の概要
- 3 路線状況
- 4 関連項目
雨滝街道
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「鳥取県道31号鳥取国府岩美線」の記事における「雨滝街道」の解説
明治時代になって道路の種別が定められるようになると法美往来は第三種道路(里道)となった。1882(明治15)年1月の臨時県議会でこの道路の改修を議決し、県道と同じ幅員(2間=約3.6m)で「ごく平坦で立派な道」として整備された。ただし12,000円あまりにのぼる改修費用は沿道40か村の負担であり、この時点では県道としては扱われていなかった。実際の工事は1883(明治16)年に鳥取の立川大橋から始まり、雨滝、十王峠、蒲生峠を経て、1889(明治22)年に兵庫県二方郡千谷村(八田村を経て現在の新温泉町)に至って完成した。 特に十王峠と蒲生峠の間では、荷馬車の通行を可能にするために十王峠の頂上からくだるルートが法美往来とは大きく変わり、銀山地区へ下りるのではなく洗井地区へ下りるようになった。1892(明治25)年には、蒲生峠に荷馬車などの通行が可能な新道が開通した。これは従前の塩谷から峠に登るルートではなく、蒲生川に沿って洗井地区の蕪島まで遡り、そこから山越えをするルートになった。この結果、洗井地区には蒲生峠を越える利用者のための商店などができて、宿場町のような賑わいを見せた。。 この道路は荷馬車や人馬の往来が頻繁だったが、県道ではなかったので、道路の補修費用などの維持費は相変わらず沿道の村が拠出しており、重い負担だった。1896(明治29)年に、鳥取に歩兵第40連隊が移転してくることになると、これを機にこの道路を県道に昇格させる運動が起きた。県議会への請願により、この年11月の議会で県道化が可決、翌1897(明治30)年に正式に県道となった。このときの建議書で「雨滝街道(雨瀧街道)」と表記されており、それ以来この県道を雨滝街道と称するようになった。。 区間・距離 立川大橋 - 兵庫県二方郡千谷村(八田村) 6里12町(約24.87 km) かつてのルート 江戸時代の法美往来は鳥取城前の擬宝珠橋が起点だったが、明治の県道・雨滝街道は立川大橋が起点となっている。擬宝珠橋・立川大橋間は、現在は主に県道323号および県道291号によって結ばれているが、現在のルートは改修や付け替えによって変わっており、江戸時代と一緒ではない。擬宝珠橋も現存せず、概ね鳥取県立鳥取西高等学校の前に位置していた。 立川大橋から宮下までは、ほぼ直線である。ただしこのうち大部分を占める、立川大橋から「奥谷入口」交差点までは、路線の付け替えによって現在は県道291号として扱われている。「奥谷入口」のあたりには、奥谷廟所(鳥取藩主池田家墓所)や宇倍神社(因幡国一宮)があるほか、一里塚があった。しかしこの一里塚は現存しない。
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