陸奥亮子とは? わかりやすく解説

陸奥亮子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 05:33 UTC 版)

陸奥 亮子(むつ りょうこ、安政3年(1856年)11月 - 明治33年(1900年8月15日)は、明治時代政治家外交官でもあった伯爵陸奥宗光の妻。日本赤十字社正社員。その美貌 [注釈 1]と聡明さによって「ワシントン社交界の華」と呼ばれた。


注釈

  1. ^ アーネスト・サトウにも「美人で涼しい目とすばらしい眉だった」と賛美されたという。
  2. ^ 先妻も芸妓出身といわれる。
  3. ^ 広吉は1887年に英国に留学し、1歳年上の英国女性エセル・パッシングハムと出会っている。滞英中のある時期から広吉は英語で日記を毎日欠かさず書いており、2人は互いに17年間待ち続けて苦難を乗り越えて結婚した[2]
  4. ^ 陸奥潤吉は、政商として有名な古河市兵衛の養子となり、鉱山の経営母体を会社組織化して古河鉱業を設立した。
  5. ^ 山田風太郎『エドの舞踏会』では、宗光には山形収監中にできた子がおり、亮子がその子をつかって山形県令だった三島通庸に意趣返しをする逸話が載っている。
  6. ^ 姑の陸奥政子は、武家出身のむかし気質で厳格な女性であった。政子は知人に「人は艱難に遭はなければ真の人間になれません。亮子も今度のこと(陸奥入牢)で能く心を研かねばなりません。あれが為めには今度が大の薬です」と語っていたという[1]
  7. ^ 陸奥宗光の書簡は陸奥家より寄贈されて、現在は国立国会図書館に保管されている。亮子宛て書簡は、目録によると「謫居之巻20通 外遊之巻51通 内地之巻25通 ソノ他28通」である。
  8. ^ 岩倉具視の娘。伊藤博文との不倫スキャンダルが新聞報道され、国民の鹿鳴館に対する目は厳しくなったという。
  9. ^ 当時の花柳界でしばしばみられたように、金田姓は宗光が届け出た上、縁組した可能性がある。

出典

  1. ^ a b c d 陸奥宗光未亡人没す 『新聞集成明治編年史』第11巻(1936年 - 1940年)
  2. ^ 下重(1994)
  3. ^ 『文藝春秋』第77巻第3号(1999年3月)p.83
  4. ^ a b 純愛. 講談社 


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