院号宣下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:36 UTC 版)
育子の立后は既定路線だったが、后位は中宮・姝子内親王、皇后・忻子、皇太后・呈子、太皇太后・多子と全て埋まっていたため、誰かが后位を退かなければならなかった。二条帝は姝子に院号宣下をして空席を作り(2月5日)、育子を中宮とする(2月19日)。在位中の天皇の后妃が院号宣下を受けた初めてのケースであり、姝子は后位を事実上追われる形となった。女院号は立后を行った御所・高松殿に因んで、高松院と号した。長寛2年(1164年)7月22日、二条帝に第一皇子(母は右馬助・源光成の女、後の大僧都・尊恵)が生まれると(『百錬抄』)、姝子が引き取って猶子とする(『吉記』承安4年3月10日条)。しかし二条帝は、育子が猶子とした第二皇子(順仁親王、後の六条天皇)に譲位してこの世を去った。 院号宣下後の姝子内親王の生活は閑静なもので、仏道にひたって年月を過ごしていたようである。安元2年(1176年)6月13日、脚気に痢病を併発して崩御、36歳だった(『百錬抄』『玉葉』『吉記』)。高松院別当の藤原隆輔が今熊野に参籠中の後白河院に奏上したところ、後白河院は「これほどの大事を今までなぜ知らせなかったのか」と再三に及んで叱責して、直ちに御所に還幸した。後白河院が姝子の身を案じ、気遣っていた様子がうかがえる。 姝子内親王の没後、白河押小路殿と高松院領は建春門院に譲られるが(『玉葉』治承5年2月4日条、『吉記』元暦元年4月16日条)、この処置は後白河院の意向によるものと推測される。姉の八条院が膨大な所領を背景に独自の政治的地位を築いたのに対して、姝子は経済的に後白河院に従属する立場にあったと見られる。
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