関田繁里
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関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、1888年 (明治21年)9月28日 - 1937年(昭和12年)5月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。位階は正五位。勲等は勲三等。
- ^ 1910年10月16日、横須賀を出発し、ホノルル、サンフランシスコ、サンペドロ、マサリーニョ、アカプルコ、パナマ、アカプルコ、ホノルルの順にハワイ、アメリカ西海岸を廻航。1911年3月6日、横須賀に帰着。
- ^ 宿で同郷の山崎重暉にばったり会う。二人は試験前日にもかかわらず酒を飲み交わし、酔っ払って寝てしまったという。詳しくは山崎重暉著『回想の帝国海軍』を参照のこと。
- ^ 近隣には軍人仲間の松木益吉、三川軍一、谷村豊太郎らも住んでいた。海軍武官が多く移住してきたこの地は、のちに「奥澤海軍村」と呼ばれるようになる。横須賀鎮守府・海軍省・海軍大学校などを往来する海軍武官にとって、奥澤村は立地が良かった。また、当時の海軍武官は関東大震災を経験して都市の脆弱性を目の当たりにし、郊外の安全性を認識していた。
- ^ 同期の乗馬仲間は、山崎重暉、高木武雄、阿部弘毅、角田覚治、近藤泰一郎、奥田喜久司の6人。
- ^ 第一遣外艦隊所属の間、武漢から重慶あたりまで遡江して軍閥の呉佩孚と会談したほか、劉湘、楊森、唐生智ら中国要人や、欧米の武官、外交官と接触した。
- ^ 赴任中の1934年3月、佐世保鎮守府長官米内光政の時に友鶴事件が発生している。
- ^ この頃、徳富蘇峰と関わりを持つ。徳富蘇峰記念館には「軍令部出仕兼海軍省出仕(軍事普及部第一課長) 海軍大佐」と記された関田繁里の名刺が残されている。
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