開墾の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:12 UTC 版)
1909年(明治42年)道の拓殖計画に基づいて、ワッカウエンベツの国有林約559町(≒554ha)が国有未開地処分法に基づいて売払貸付地となっているが、すぐに入植する人物は現れなかった(1911年〔明治44年〕に約72町≒71.4ha追加)。 当地の開墾は、1914年(大正3年)に江川惣之助という人物がこのうちの榛の木沢から化石沢付近までの117町歩(≒116ha)を払い下げられたことに端を発する。江川は1916年(大正5年)に十津川出身の泉谷政一と契約し、泉谷は弟の杉本源吾(2年後病死)と共に小作人として入植した。 1918年(大正7年)、農場の所有は江川から片岡久四郎ら4名に変わり「片岡農場」と呼ばれるようになった。しかし、同年払い下げ御料地に対する検査が入り、払い下げられた土地のうち20町(≒20ha)程度しか草刈りができていなかったことを理由に、片岡らへの払い下げは取り消しとなってしまった。一方で泉谷は3町9反(≒3.9ha)余りを開墾していたため土地の付与を受けることができた。 片岡らはその後関係機関への運動を経て、片岡のほか角谷芳三ら2名の名義で改めて払い下げを受け、泉谷に管理を委託し5年間で開墾することとした。
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