開基・蘇我倉山田石川麻呂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:39 UTC 版)
山田寺の開基である蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の一族に属し、蘇我馬子は祖父、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。石川麻呂は蘇我氏の一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対しており、中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)、中臣鎌足らの反蘇我勢力と共謀して、皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担した。乙巳の変後に発足した新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられた。 『日本書紀』によれば、乙巳の変の4年後の大化5年(649年)、石川麻呂の異母弟・蘇我日向は、石川麻呂に謀反の志があると中大兄皇子に密告した。そして、石川麻呂のもとへは孝徳天皇の軍勢が差し向けられた。石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害した。石川麻呂は無実であり冤罪であったとされるが、事件の真相については諸説ある。
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