鎌倉幕府と討幕側となった南部氏一族
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「南部氏」の記事における「鎌倉幕府と討幕側となった南部氏一族」の解説
鎌倉時代末期には、南部氏一族は幕府側と討幕側に分かれた。鎌倉幕府打倒未遂事件の1つの「元弘の乱」が起きた1331年(元弘)元年には、波木井南部氏の家祖・南部実長の子、二代目実継は護良親王・尊良親王両親王とともに河内の赤坂城で戦うが親王とともに捕らえられ、実継は京の六条河原で最初に斬首されている。新田義貞の鎌倉攻めでは、三戸南部氏の南部右馬頭茂時や南部孫二郎、南部太郎らは鎌倉幕府についた。だが、甲斐南部氏の南部義行の嫡子、義重や、南部時長・奥州の南部政長らは倒幕軍の新田氏の軍勢と鎌倉に向かい、時長は北条一門伊具土佐孫七を討ち取る等武名を挙げている。鎌倉幕府の滅亡の際に、南部氏宗家は2代・実光の頃から南部長継までに、南部師行の父、南部政行が工藤氏に入るなどして、鎌倉幕府の命で奥州に地盤を張っていた同族を頼り、奥州に向かった。
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