北条実泰
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北条 実泰(ほうじょう さねやす)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。金沢流北条氏の祖で、金沢 実泰(かねさわ さねやす)とも[2]。
注釈
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- ^ もう片方の「義」の字はこの時に理髪役を務めた大内惟義から受けたものとされている[12]が、元服にも立ち会った父の義時から継承したものとも考えられる。
- ^ 北条実義(後の実泰)は将軍を烏帽子親としてその一字を与えられたが、次代の実時以降の金沢流北条氏の当主は得宗家の当主を烏帽子親としてその一字を与えられている。これは、北条氏の一族の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられるのが得宗家と赤橋流北条氏当主に限定され、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともにそれよりも一ランク低い得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられ、実義から実泰への改名もその方針に沿ったものであったと考えられている[13]。
- ^ 『吾妻鏡』を見ると、嘉禄元年(1225年)5月12日条の段階で「陸奥四郎政村 同五郎実義」となっていたものが、安貞2年(1228年)1月3日条の段階では「陸奥五郎実泰」と変化しており[14][15]、この間に改名を行ったものと考えられる。
出典
- ^ a b c d e f g h i j 福島金治「北条実泰」『朝日 日本歴史人物事典』 。
- ^ a b c d e f g h i 「金沢実泰」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ a b c 永井 2006, p. 24.
- ^ 「桓武平氏系図」、「北条系図」(『続群書類従』別本)より[3]。
- ^ 「前田家本北条系図」より[3]。
- ^ 洞院 1903, pp. 16, 20.
- ^ 洞院 1903, p. 16.
- ^ 洞院 1903, p. 17.
- ^ a b 洞院 1903, p. 18.
- ^ a b c d 洞院 1903, p. 20.
- ^ 山野 2012, p. 182 脚注(27).
- ^ 角田 2004, p. 19.
- ^ 山野 2012.
- ^ 御家 1971, p. 224.
- ^ 御家人制研究会 編『吾妻鏡人名索引』吉川弘文館、1971年、224頁。
- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、145-149頁。ISBN 978-4-86602-090-7。
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