郡山藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)
元和元年(1615年)に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」とされ、郡山に3万石加増の6万石で転封される。これは依然政情不安な旧豊臣領に睨みをきかすために、勝成を配置したものであるが、大坂の陣での勝成の戦功に比べて、いかにも過小評価と考える人は多かったらしく、勝成自身は2、30万石の知行を期待していたが、家康の命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、家康の機嫌を損ねてしまったとも言われる。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという水野氏側の伝承が伝わっている。 郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617年)11月22日、生母の妙瞬尼が亡くなる。
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