近畿地区大学野球連盟の傘下時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:14 UTC 版)
「近畿学生野球連盟」の記事における「近畿地区大学野球連盟の傘下時代」の解説
1952年、全国大学野球連盟が新制大学野球連盟を吸収して、大学野球の統一組織である全日本大学野球連盟が結成された。この組織の成立に伴い、近畿大学野球連盟は旧関六・京滋の2連盟もともに全日本連盟傘下として活動することとなるが、全日本大学野球連盟結成時の経緯から全日本大学野球選手権大会の代表枠において、旧関六は旧制大学組として優勝校がそのまま出場できる権利がある一方、近畿・京滋の2連盟は新制大学組の近畿地区内の下部連盟という扱いとなり近畿地区大学野球連盟として出場権は1つとされた。
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1952年 全国大学野球連盟と全国新制大学野球連盟が合併しそれぞれが発展的解消。第1回全日本大学野球選手権大会を開催。近畿大学野球連盟は西部地区(近畿・中国・四国地区)に編入。代表決定戦で近畿大学が松山商科大学を下し西部地区代表として本大会に出場。春季に高野山大学が加盟。秋季終了後に高野山大学と神戸市外国語大学が脱退し、大阪薬科大学が加盟。 1953年 全日本大学野球選手権大会の代表枠において近畿地区が独立。近畿大学野球連盟と京都六大学野球連盟で近畿地区大学野球連盟(以下、近畿地区)を編成、本大会には本連盟の近畿大学が近畿地区代表として出場。秋季に大阪工業大学が初優勝し近畿大学の1948年春から続く11連覇を阻止。なお春季から1部は2回戦総当り、2部は春季のみ2回戦総当りで秋は1回戦総当りという対戦方法に変更。 1955年 4月に浪速大学が大阪府立大学と改称。 1956年 連盟理事長に稲葉重男を迎え、1部の主要開催球場を甲子園球場から日本生命球場に変更 1959年 近畿大学野球連盟と旧関西六大学連盟(以下、関六)との合併申し入れが近畿大学を中心にした運動として開始。同年8月に合併申入書を発送。同12月に拒否回答。 1961年 同年9月に京滋・阪神との共同にて再たび関西六大学連盟(旧連盟)に合併申入。同年12月に申し入れ回答。
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