軍律裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 05:03 UTC 版)
日本軍は、1942年5月の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の際に、戦死した特殊潜航艇の乗組員に対して、濠州側がその勇敢な行動を称賛し丁重な海軍葬を以て報いたことを意識して、捕虜となった隊員を厚遇した。 水上憲兵隊から報告を受けたシンガポールの軍司令部では、隊員を戦時国際法に反した犯罪者として軍律裁判で裁くか、あるいは彼等の行為を戦時下の戦闘行為として認め、捕虜として収容所に送るかで意見が分かれたが、第7方面軍法務部の神谷春雄少佐は前者を主張し、事件を法的に再検証することになった。 1945年4月中に神谷少佐は再調査を終了し、「日本国旗を掲げ原住民に扮して日本占領地域内で行われた隊員の行動はスパイ行為にあたり、南方軍軍律第2条第1項第1節の『反逆、諜報活動の罪』の範疇に入る」と結論付けた。 1945年7月3日から第7方面軍の軍事法廷が開かれ、検察官の神谷少佐は、「偽装裏切り行為(Perfidy Charge)」およびスパイ行為を起訴理由として被告人10人全員の銃殺刑を求刑し、求刑どおり判決が下された。論告求刑の中で検察官は、隊員は決死的行動を行った英雄であるとし、その勇敢な行動を称賛した。 軍司令部でも助命の機運が高まり、隊員に嘆願書の提出を促したが、隊員たちは軍法会議の決定に従うとしてこれを拒否した。 同月7日、パッシール・パンジャン(英語版)の森の中、ブキテマの高台の一角にある刑場で10人の銃殺刑が執行された。
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