越後平野と仙台平野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「越後平野と仙台平野」の解説
7世紀代に城柵が造営された越後平野、仙台平野、米沢盆地といった地域ではエミシが反乱を起こしたことを伝える史料などは一切ない。これらの地域は弥生時代以来の稲作農耕文化がそれなりに発展し、古墳時代前期より大型古墳の造営など古墳文化の昴揚もみらるため、もともと関東地方や中部地方以西の国造制施行地域に住む人々とあまり大きく変わらない農耕文化や信仰文化をもっていたと考えられる。そのため近隣の城柵を拠点とした律令国家の支配を抵抗もなく受け容れ、やがて内国地域の社会・住人と区別しがたいほどに同化していった。 大宝律令施行時点で越後平野、仙台平野、米沢盆地、山形盆地は律令国家の支配体制に組み込まれ、それらよりも北方の諸地域が「エミシ」の地と定められることとなった。
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