貞子女王_(徳川斉匡室)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 貞子女王_(徳川斉匡室)の意味・解説 

貞子女王 (徳川斉匡室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/14 11:49 UTC 版)

貞子女王
閑院宮家、田安徳川家
続柄 閑院宮美仁親王の第一王女

称号 裕宮(ひろのみや)
身位 女王( → 降嫁
出生 (1782-05-08) 1782年5月8日
死去 (1825-11-10) 1825年11月10日(43歳没)
配偶者 徳川斉匡
子女 一覧参照
父親 閑院宮美仁親王
母親 文君[1]
テンプレートを表示

貞子女王(さだこじょおう、天明2年3月26日1782年5月8日) - 文政8年10月1日1825年11月10日))は、江戸時代皇族女王)で、田安徳川家第3代徳川斉匡正室

生涯

天明2年3月26日グレゴリオ暦1782年5月8日)、閑院宮美仁親王の第一王女として誕生(母:文君)[1]。称号は裕宮(ひろのみや)[1]

寛政5年12月16日1794年1月17日)に、徳川斉匡結婚が定められる[2]。寛政7年10月22日1795年12月3日)、関東下向[1]。同年11月27日1796年1月6日)、徳川斉匡正室となる[1]。なお、下向を11月、降嫁を11月28日とする資料もある[2]

文政8年10月1日1825年11月10日)、逝去[2]。満43歳、数え年45歳。戒名無量院眞壽見阿大姉[2]。同年10月8日1825年11月18日)、上野凌雲院(上野寛永寺内)で葬儀が行われた[2]

貞子女王の没後、天保7年(1836年)に貞子女王所生の徳川匡時廃嫡されている。

子女

注:続柄は斉匡から見たもの。斉匡には貞子女王所生の子以外に20人を超える子がある。

参考文献

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e 皇室系図綜覧 1915, p. 89.
  2. ^ a b c d e 皇族明鑑 1889, p. 64.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  貞子女王_(徳川斉匡室)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「貞子女王_(徳川斉匡室)」の関連用語

貞子女王_(徳川斉匡室)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



貞子女王_(徳川斉匡室)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの貞子女王 (徳川斉匡室) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS