論文受賞の経緯
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賞の主催者であるアパグループには、締め切りまでに論文235点が応募された。それをアパ側がまず25点に絞り込み、審査委員は執筆者名が伏せられた作品を読んだ。その後、審査員が自ら最優秀作から佳作までの候補作を選んで得点をつけ、アパ側が集計して元谷外志雄アパグループ代表を含めた審査会に送り、各賞が選出された。花岡の発言によると、25点の論文の中には盗作の疑いが含まれる論文が存在したという。 その結果、第一回最優秀藤誠志賞の受賞作は、2008年10月31日に田母神俊雄航空幕僚長の「日本は侵略国家であったのか」に決定した。ただし、田母神の身分を知った3人の審査員は「田母神から名前を公表する許可」を得るという条件をつけた。小松崎和夫報知新聞社長は「内容で選んだわけであるから、特に問題だとは思わなかった」とした。しかし、花岡信昭産経新聞社客員編集委員は高く評価しつつも、「これは政治問題化するだろうと直感しましたよ」と明らかにしたように大問題化した。
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