見付の教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/02 09:28 UTC 版)
見附は遠江国の国府が置かれた場所であり、近世には見附宿が東海道の宿場町として発展した。寺子屋で初等教育が行われ、中にはより高度な教育を行う私塾に進学する者もいた。この地域の代表的な私塾としては、淡海國玉神社の神官を務めていた大久保忠尚による私塾が挙げられる。 この頃の遠江国や三河国では、浜松出身の賀茂真淵に代表されるように国学が盛んであり、大久保は吉田の羽田野敬雄、一宮の小国重友、参野の桑原真清などと交友した。国学者が私塾以外に文庫(図書館)を設立することも流行しており、伊勢国松坂の本居宣長は射和文庫を、羽田野敬雄は羽田野八幡宮文庫を設立していた。大久保は本居や羽田野にならい、元治元年(1864年)淡海國玉神社境内に磐田文庫を設立している。
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