袁氏の没落と曹操の台頭
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「白馬の戦い」の記事における「袁氏の没落と曹操の台頭」の解説
一年後、曹操は倉亭まで軍を進め、袁紹の駐屯軍を破った(倉亭の戦い)。袁紹は領内の反乱の鎮圧に忙殺される中で202年に病没している。 袁紹の後継を袁譚と袁尚とが争い、袁家の勢力は二分された。 曹操は郭嘉の進言により袁譚と一時結び、袁尚と戦い204年8月には袁尚の臣下の審配が守備する鄴を陥落させ、袁尚を幽州に追いやった。次に袁尚の勢力を吸収しつつあった袁譚を理由をつけて攻撃し、205年春正月に南皮において袁譚・郭図を斬った。袁譚の本拠であった青州には張遼らを派遣して平定した。 曹操はさらに袁尚らを追って幽州に進撃し、207年秋8月には柳城の戦いで烏桓の蹋頓を斬るなどして袁氏の命脈を完全に断ち、さらに烏桓や遼東の公孫氏を服属させている。また、関中や并州方面においても袁氏陣営の高幹や郭援を滅ぼす一方で、張燕、馬騰、韓遂、王邑らを服属させるなど、曹操はその勢力圏を大きく広げることとなった。
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